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その日、土方はもう道筋すら曖昧になってしまった屯所へと、銀時のベスパに乗って帰還した。 ただ、門番の隊士にその姿を見られれば土方が戻ったのだと騒ぎになるのは必至で、それを避けたかった結果裏口からこそこそと副長室へと向かう事にはなってしまったが。 余り褒められたものではない行動に、だが朝礼前に土方と隊士を接触させないためにも、それは必要な措置と言われれば、拒否する理由はなく。 ここが副長の部屋ですよ、と山崎に案内され通された私室も、土方の記憶には目新しいばかりで戸惑いが芽生える。 銀時は傍には付いていてくれているが、この件に関し土方の方から何らかのアクションが無い限りは手を出さない心づもりなのだろう。 部屋の隅でじっと立ったまま、ただ土方の事を見守るようにそこにいてくれている。 だが、今の自分にはそれがなにより有難い。 後ろに銀時がいる。 ただそれだけで、すっと呼吸が楽になるような心地だった。 時計を見れば、あと四半刻で朝礼が始まる予定の時刻を指している。 そろそろ準備をしなければ、と思って。 だがそれがどこにあるのかすらわからない自分に、助け舟を出してくれたのは山崎だった。 「どうぞ、副長」 「あ、あぁ……すまねぇ」 差し出されたそれは、己が常に身に着けていた黒の隊服。 土方はそれを受け取り、手に馴染むその衣服にほっと息を吐きだした。 身に着けていた着流しを脱ぎ、次いでシャツから順に隊服を身に着けていく。 最後にスカーフを胸元に収め、姿見を見るとそこには久方ぶりに見る、だが見慣れた己の隊服姿が映っている。 それを確認して漸く、己が土方十四郎から真選組の副長へと、戻った気がした。 「……やっぱり、お似合いですね」 副長には隊服が、と告げる山崎に、湧き上がる感情は複雑なもので。 その感情をごまかすように、土方は着流しから拾い上げた煙草を咥え、フリントを擦る。 苦味が煙となって喉から肺を犯していくのを感じながら吸い込んだそれを宙に吐き出し、土方はなぁ、と山崎に問いかけた。 「俺は、お前を山崎と呼んでたんだよな」 「はい」 「沖田のことは?」 何と呼んでた、と問いかける土方に、山崎は答えた。 「総悟、と。名前で呼んでました。局長も同じです」 どちらも名前で呼んでいましたよと告げられ、土方はそうか、と目を伏せる。 もう一度紫煙を吐き出し、土方の問いは続いた。 「じゃあ、……俺は、真撰組で、……隊士達の前でどんな様子だった」 それは、少しでも部下の前でそれらしい己を振舞わなければという、一種の強迫観念のような思いからでたもので。 だが、そんな土方に山崎は、僅かに目を伏せた後、ゆっくりと首を振った。 「……いいですよ、そのままで」 「だが」 「記憶がなくなったからといって、別の人間になっちゃう訳じゃないんですから」 言って、どうぞ、と山崎から手渡されたそれは、先程着流しを脱ぐ際に刀掛台へと預けた村麻紗で。 それを受け取り隊服の脇へと差せば、それはしっくりと手に馴染み、自然と背筋が伸びた。 その様に、山崎が安心したように笑う。 「ほら、やっぱり変わりませんよ」 「……そう、か?」 「はい。ピンと、背筋を伸ばして、迷いなくこちらを見るんです。怖いくらい、真っ直ぐな目で」 そういってこちらを看る山崎の瞳は、何か眩しいものを見るような目で、すっと細められた。 「俺は、俺達は、そんな副長が誇り、でした……いいえ、今もそう思っている。……それが、理由です」 「え……?」 理由です、と。 告げられたその言葉に、一瞬意味がわからずに。 「いいんです。わからなくても……ただ、今聞いて欲しかった。もう、きっと、言えんかもしれないと、思いまして」 言っておきたかったんです、と告げる山崎の言葉で、土方は息を呑む。 それは幸いにも、まだ土方の記憶にまだ残ってくれていた。 山崎の記憶をなくした時、己の下に仕える理由を、もし思い出す日がきたら教えてくれると、そう言ってくれた事を。 「あの、だから、もし、どうしても、最後にしなければいけないのなら、……最後まで、最後の最後の、一瞬前まで、……アンタの部下でいさせて下さい」 お願いします、と。 頭を下げる山崎の姿に、声が震えた。 「いや、……覚えてる。……ありがとな」 聞けてよかった、と告げる土方の言葉に、山崎は一度言葉に詰まって。 「やめてくださいよ! 副長が俺に頭下げるなんて、天変地異かと思いますから!」 そういって、まるで何かを隠すように大げさに、笑った。 その笑みが覆い隠すものこそ、忘れてしまえれば山崎をこれ以上傷つけずに済むだろうかと思って。 だが、どんな理由があろうと『忘れる』ことを肯定することなどあってはならないことだと、土方は紫煙を吐いた。 穂先が短くなった煙草を、部屋の隅に置きっぱなしにされていたアルミ灰皿へと潰して捨てる。 時計を見れば、朝礼が始まるまであと僅かな時間だった。 「……行きましょうか」 硬質的な声でそう問うように告げる山崎の言葉に、頷く。 あぁ、本当にこれで終わってしまうのかと、それが酷く寂しい事に思え、覚えてもいないくせにと自嘲が漏れた。 もう一度身だしなみを整え、銀時の方を見ると彼は少しだけ笑った。 「いってらっしゃい、副長サン」 「……あぁ、いってくる」 これが、副長としての己の最後の仕事だと。 そう心の中で覚悟を決め、土方は山崎に連れられ、副長室を出た。 隊士達は既に全員広間に集合がかけられているのか、屯所内には人影がない。 広さがあり入り組んだ廊下を進みながらうぐいす張りの音に自然と耳を傾ける。 こっちです、と道案内をしてくれる山崎の半歩後を歩いていると、不意に、人の気配がして土方は歩を止めた。 みれば、曲がり角の向こうに柱へと身体を預けた華奢な青年が立って、じっとこちらを見ていた。 驚いて思わず立ち止まった己に、山崎が『沖田隊長です』と耳打ちをくれる。 二十歳そこそこ、とは聞いていたが会えば予想よりもずっと若く見えるその容姿に、これで真選組最強の剣の使い手なのかと些か驚きながら、土方は生唾を飲み込んだ。 沖田は何も声を発さない。 こちらから話しかけてもいいのだろうかと思いながら、土方は恐る恐る口を開いた。 「そ、総悟?」 確か、そう呼んでいたと言われたはずだと、その記憶を辿り口に出した名前に、沖田の顔が歪む。 「気安く呼ばねェで下せェ」 反吐が出まさァ、と続けられたその言葉には明らかに悪意と憎悪が混じっていた。 「……あ、」 「目障りなんで、とっとと退位表明でもなんでもしてその制服脱いで貰えませんかね」 「隊長!」 「死ね、クソ土方」 山崎の窘めなどまるで聞こえなかったように、沖田はそう吐き捨て踵を返す。 そのまま廊下から続く障子を激しい音と共に締め切り姿を消した青年に、土方はこの短時間で投げつけられた罵詈雑言に呆然としていた。 嫌われている、とは、己の日記から十分に判っていたつもりだが、まさかこれほどとは、と額を抑える。 それとも、己が真選組を捨てるという考えがなにか沖田の逆鱗に触れたのかも、しれない。 「あの、大丈夫ですか?」 半ば放心したような状態の土方を心配したような山崎の伺いにはっと我に返り、土方は慌てて頷いた。 「あ、あぁ。悪い……平気だ」 「あの、……気にしないで大丈夫ですよ。多分、寂しいとか、悔しいとか、そんな感じだと思います」 「あ?」 文脈から言って多分それは沖田の事を言っているのだという事はわかるのだが、先ほどの言動からその二つの感情をどうやって読み取ったらいいのだろうかと土方は眉を寄せる。 「……悔しいは、まぁ、……分からんけど説明によっちゃ分かりそうな気はするが、……寂しい?」 寂しいという言葉の解釈を己は間違えているのはないかと首を傾げる土方に、山崎は少し困ったような顔をしながら言った。 「沖田隊長の感情表現は、たまに幼いんです。寂しいけど言えないから、わざと乱暴な言動で相手を傷つける。……子供と一緒ですよ」 「それにしたって……」 急角度すぎるだろうと言おうと思ったが、やめた。 きっと言った所で返ってくる言葉を理解できるとは、思えなかったから。 それに、そんなこともきっと記憶を無くす前の己なら理解できたのだろうと考えた時、酷く胸が傷んだせいもある。 もうそんなことを気にした所で、どうにもならないのに、いつまでも未練を捨てきれない。 覚えていなくとも、やはりここは己の住んでいた場所なのだと、土方は屯所を見回した。 「……行きますか?」 どこか懐かしい目で屯所を眺め、ほっと息をついた土方に山崎が声をかける。 頷き、土方は板張りの廊下を進んで山崎の先導で広間へと向かった。 広間へと入る手前で山崎が少し待っていて下さい、という合図をして、先に襖を少しだけ開ける。 お連れしました、という言葉に中にいる近藤が隊士達に今日は大事な話があるという旨を伝えているようで。 少しだけざわつく広間の雰囲気に、緊張がより一層高まり無意識に足が震えた。 きっと、広間に入ってきた己を見て隊士達は土方が復帰したのだと、そう思うだろう。 実際は、まったくの真逆にもかかわらずだ。 「副長、どうぞ」 一瞬、物思いに耽ってしまっていた己を、山崎の声がこちらへと引き戻す。 そして、襖に近い場所でその声を聞いたのだろう隊士が、副長? と驚いたような声を上げるのがここまでも聞こえた。 もう、逃げるわけにはいかないのだと、土方は意を決し、自分の意志で踏み出した足で広間へと歩を進めた。 土方が広間に足を踏み入れた瞬間、ざわりとその場を動揺が走る。 そしてその動揺が明らかに歓喜を含んだものであることに嬉しさを感じると同時に、申し訳なさが募った。 ここに座れ、と示してくれた近藤に従って上座へと腰を落とし、土方は改めてその場に座る隊士たちを見回す。 だがやはり、ここに至って顔と名前が完全に一致する人間は皆無だと感じた。 「おい、静かにしろ。……話は、トシから直接してもらう」 皆、よく聞くようになと。 近藤が言葉を発する前振りをしてくれた事に感謝しながら、土方はざわつきつつも静かになっていく広間へと視線を向けたまま、小さく息を吸った。 「まず、長らく療養として席を開けた事を詫びる。テメェ等には迷惑をかけた」 すまなかったな、と。 告げる言葉に隊士達の間に若干の動揺が走ったが、それよりもと土方は話を続けた。 「その上で、こんな話をすることに、もう一度謝りたい。だが、これからいうことは既に、局長である近藤さんへの伺いは済んだ決定事項だ」 それでも、それを言う瞬間だけは、どうしようもなく声が掠れそうになって、それを必至で耐える。 「本日を持って、――俺は、副長の席を退き、真選組を脱退する。後任に関しては、全て局長である近藤勲に一任する構えであり、今後一切、それがなんの分野であろうとも、俺が真撰組の仕事に関わる事はない」 ざわりと、隊士の間で先程とは種類の違う動揺が広がる。 状況自体が掴めていないのか混乱したように騒ぎが広がるその中で、やはり一番に我に返ったのは原田だった。 「ちょっと、待って下さい副長! 突然、何言ってんですか!」 しかし、そんな原田を見る土方の目の中に、困惑のような、とにかく何か違和感があることだけは察したのだろう。 原田は困惑したような声でもう一度、副長? と問うた。 その呼びかけに答えようか迷って口を噤み、ただ土方は一言すまねぇ、と謝る。 そして、もう一度呼吸を整え、また口を開いた。 「長く席を開けた上、こんな報告しか出来なかった事をお前らに謝りたいと、……今日は、そのためにここに来た。」 「謝るって……、何があったんですか」 謝られて、許そうにも、それがわからなければ許しようなないですという原田の言葉に、漸く混乱から立ち直ってきたらしい隊士達がそれに同調する。 土方は、そうして己を惜しんでくれる隊士達に、やはり話さなくてはいけないだろうと腹を括った。 「……俺が、病にかかっているというのは、お前らも聞いてたはずだ。それは嘘じゃねぇ。俺の身体は今も、……天人の病に侵されてる」 「天人の……?」 隊士達の間に再び広がる動揺を遮るように、土方は淡々と告げた。 「原因は既に特定し、人に移るような病ではないことも確定している、が現時点で有効な治療法がねぇ。病の種類は平たく言えば記憶喪失みたいなもんだ。俺の頭の中から、記憶という情報が今も分刻みで消えてる。すまねぇが、……一人も顔がわからねぇ。名前もだ」 ざわりと、動揺とともに失望が広がっていくのに耐え切れなくなりそうで。 だがここで顔を伏せるのはしてはいけないことだと、必至で耐え土方は前を向く。 少しでも長く、隊士達の顔を見ておくためにも、ここで目を伏せてはいけないのだと。 「こんな状態で、副長なんぞ過ぎた立場だ。命令も作戦も、今の俺は責任を何一つ負えない。それでも、治る見込みを信じて今日まで、お前等には何も言わずにいた。だが、……治療法より先に、俺の記憶の方が底つきそうでな……」 「副長……」 「それこそ、自分が誰かも分からなくなっちまう前に……けじめを付けたかった」 これが、逃げだと言われればそうなのかもしれない。 それでも。 「全てにおいて中途半端に、組織を放り出すような真似をして、すまねぇと思ってる。だが今の俺には、……どうすることもできねぇ。……許してほしい」 そこで、初めて土方は目を伏せた。 だがそれは目を逸らすためではなく、頭を下げるための行為だ。 許してほしい、なんて、大それた事を言うつもりはなかったけれど、己への怒りや憤りで組織がおかしくなることだけは避けたかった。 もし許せないのならいっそ忘れて欲しかった。 でも、今の自分の事情を鑑みれば、そんなことは言えるはずがなくて。 ただどうか、少しでも早く己のいない真選組に慣れて欲しいと、そう思う。 「話は、以上だ。解任は追って行うが、俺は今日をもって屯所を去る」 「そんな、急に……!」 「悪い、本当はあんまり出歩いちゃいけねぇんだよ」 それは、嘘ではないが本当とも言いがたい言い訳だ。 厳密に言えば、時期の予想がついているとはいえいつ発作が起きるか分からない状態で外に出るのは危険極まりないことだから、全くの嘘とはいえないけれど。 だが、ここで情に流され屯所に居付けば、それだけ去ることに未練が出るだろう。 ならば辛くとも、きっぱりと今日でけじめを付けてしまったほうがいい。 そう思い、わざと隊士達が己を引き止めづらくなるような言い訳をしたのだ。 元より土方の私物はさして多くはない。 今日半日もあれば十分纏める事ができるだろう。 「……トシ、いいか?」 他に何か言っておきたいことはあるかと、問いかける近藤に、土方は少し迷ってから首を振った。 今の己の真選組に対する思いは、己の書いた日記と近藤によって繋ぎ止められた僅かな記憶からなる非常に曖昧なものだ。 こんな思いで何かをご大層に語るのは、酷く傲慢な気がして、どうしてもできなかった。 ゆっくりと首を振る土方に、隊士の間からまた落胆が広がったような気がするが、それに対しどうにも出来ないことが酷く歯がゆい。 「そうか。……じゃあ、トシからは以上だ。次に今日の市中見廻りについてだが……」 そして議題が恐らく通常の朝礼のものへと戻っているのだと感じながら、土方は己へと突き刺さる視線が困惑から落胆や憐憫へと変わっていくのをまざまざと感じる。 それに対し、感慨らしい感慨を持つことが難しいほどに、受け取り損ねた記憶は奈落へと落ちたまま戻ってはこない。 己が口を開けば開いただけ、心のない言葉で皆を傷つけるのではないかという不安が募る。 寂しいか、寂しくないかと聞かれれば、勿論寂しいとは思う。 だが、己の記憶は今例えるなら要所以外のピースが全て抜け落ちたジグソーパズルのような状態なのだ。 わかるのはぼんやりとした外格だけで、全体像を描き出すことが出来ない。 ふと、思い出したように広間を見回した土方は、そこに先程の青年の姿がないことに気づいた。 いつも、こうなのだろうか。 それともやはり、己がいるからなのだろうかと。 出来れば最後にもう一度会いたいと思って。 だが、その行為が余計に彼を傷つけるのではないかと思えば、とても口にすることは出来そうになかった。 * * * 私室に置かれていた荷物を全てダンボールに詰め、土方の私物は一旦全て土方名義のセーフハウスへと運ばれた。 極秘任務などを行う際の中継地点として、土方が真選組ではなく個人名義で借りていた場所ですと、記憶のうちでは初めてその場所に案内された土方は山崎からそう説明を受けた。 もとよりこれ以上真選組や銀時に迷惑をかけることは避けたかった土方にしてみればその家の存在は渡りに船ともいうもので。 しかし、いっそこの場所で療養をと言い出そうとしたその言葉は、銀時に無碍もなく却下されてしまった。 土方としても、そんなことを突然言い出して銀時が納得などするわけはないと分かっていたが、ただ、降り積もり罪悪感からほんの少しだけ逃れられないかという本能が働いたのだと思う。 己の言葉をだめだと一蹴した銀時の言葉にわかってる、と溜息をつき、土方は運ばれた荷物の中から必要最低限の荷物だけを整理し手荷物へと纏めた。 元より根無し草のような暮らしが出来てしまう性格の己には、どうしても持っておきたい荷物など殆どない。 むしろこれで後の荷物は全て売り払います、などということになれば話は別だが、そうでないのなら必要ならばまたこの場所に取りに来ればいいのだと。 土方は私室の金庫に仕舞っていた通帳や実印、それにパスポート等の生活必需品だけを一つにまとめ、その日の夕方にはまたこれから己が暫く世話になるだろう万事屋へと銀時とともに帰還した。 だが今までとまったく違うのは、己の帰る場所はもう、屯所ではなくなってしまったという焦燥を覚える事実で。 だからといってここが帰る場所かと言われても、今はまだそう思えるだけの心の整理は付けられていない。 ただ一つ、これを幸と言っていいのかは分からないが、元々土方の万事屋預かりは真選組を通した依頼ではなくあくまで銀時の恋人としての好意だった。 だからこそ、土方は今この場に戻ってくることに後ろめたさを感じなくても済んだのだ。 また、本当ならば真選組を離れた段階で真選組の主治医である松本の治療を受ける資格は失くなったのだが、松本がこれは医者としての責任として、最後まで診させてくださいと申し出てくれた事により、治療は継続となった。 また、坂本から万事屋へと渡された夢獏の治療薬を松本に手渡したところ、薬の成分は幸いにも地球へと流通してる他の認可済みの天人の薬と似たものであることが判明した。 恒道館でその処方薬を飲んだところ、幸いにもその薬はよく効いてくれて、今の処痛みは随分と楽になっている。 いつまで薬が効いてくれるかはわからないが、これで暫くは凌げそうだと一同は一先ず胸をなでおろしたのが、先日の話で。 「ほんとに、それだけでよかったのか?」 万事屋の畳の上で広げた、風呂敷に包まれていたいくつかの私物に、もっと持ってきたいものがあったのでは、という顔をする銀時に、土方は首を振った。 「別にいらねぇよ。ほんとになくしたら困るもんだけありゃ、それで十分だ」 「ならいいけどよ……」 ほんと物欲ねえなぁ、お前、とつぶやく銀時の言葉に、確かにそうかもしれないと思った。 そしてそんなんだから、真選組が結成される前はいつかまたふらりといなくなってしまうのではないかと近藤から随分心配された事をふと、思い出した。 どうも自分には、これと決めた場所に長く留まる事を良しとするイメージがないらしい。 だからこそ、組織の副長に留まってからはそんな不安を吐き出されることも随分と減ったが。 そんなことを考えながらその必要最低減の荷物を見つめていた土方の後ろから、不意に暖かい熱が土方を包んだ。 銀時に抱きしめられている事にはすぐに気づいて、その心地の良い熱に自然と身体の力が抜ける。 「……どうした?」 まさか銀時も近藤と同じようなことを考えていたのだろうかと、そう問いかける土方に、銀時は座り込んだ足の間に土方を抱き込んだ。 「なぁ、お前さぁ……もううちの子になっちゃえよ」 真選組をやめて、もう行くところはないのなら、いっそそうしてしまえばいいのだと。 告げる銀時の言葉に、どこかでそれも悪く無いと思っている自分がいることには気付いていた。 だが、それを思うのはあくまでも『今の』土方であって、後数日もすれば己がどんな風になってしまうのか、それが土方にはわからない。 だからこそ、安易な返事など絶対できなかった。 「……こんな不良品欲しがってどうすんだ。後何日正常に動くかもわかんねぇぞ」 「あのな、そういうこと言うんじゃありませんよ。っつーか、そもそももう俺のだし。離す気もねーし」 なっちゃえばいいっつーかもううちの子だからね、と。 土方を抱きしめる銀時の腕の力に体の力が抜け、銀時に背を預けるような体勢になっていて。 「……『死にてぇ』、ってさ……」 「え?」 気づいたら、弱音のような言葉が口から滑り出ていた。 「そう、思ったことがねぇって言ったら、……多分、嘘になる。……正直、こんなことならもういっそ、って……」 「土方……」 「自分で死のうって、思って、でもここで死んだらお前に迷惑かかるとか、畳が血で汚れるとか、妙に冷静にそんなこと考えて、……今度は、お前に殺してもらえばいいんじゃねぇかって、……そんな最低なこと考えて」 今思えば責任転嫁も甚だしいが、ふとした時にまるで何かに憑かれたように土方はそんな問答を何度も繰り返していた。 幸い、それを銀時に悟られない程度の理性は、残っていたけれど。 「ここから逃げた時だって、心のどっかで武州に行ったら誰にも迷惑かかんねぇ場所で死ねるとか、そんな事考えてたのかも知んねぇ。だって、冷静に考えて向こういったって、住む場所もねぇのにどうすんだっつー話だしよ」 濁った心の中を吐き出す土方の言葉を、銀時はただ、止めることもせず聞いてくれている。 きっと、暗い澱みは貯めこむよりも口にして昇華したほうが楽になることを、この男は知っているのだろう。 視界の片隅に、文机の上に置かれた和綴じが映る。 万事屋に来た時につけはじめたその記録は、既に紙面をあと少し残す程まで埋まっていた。 それは、己を助けるものであると同時に、土方の心を抉る要因にもなっていて。 「日記がさ、俺の知らない名前で埋まってくんだよ。毎日、毎日、名前が増えてくんだ。こいつも知らねぇ、こいつも分からねぇ、思い出せねぇ、……そうやって増えてく名前が、墓標みたいに見えてきて、俺が、俺の中のこいつらを殺してんだって、そう思ったら耐えらんなくて、何度も、破いて捨てちまおうって思った。……でも、できなかった……」 そんなことをしたら本当に、もうその人間たちを思い出す術すら無くしてしまうような気がして。 これは己の罪なのだと。 土方はまるで、閻魔帳に己の罪を書き記すような気分で、毎日毎日、そこに名前を綴っていた。 ひょっとしたらもう、とっくにおかしくなっていたのかもしれない。 賽の河原で石を積むかのような、まるで終りが見えないその作業は、土方から正常な感覚を少しずつ奪っていたような、今になってそんな気がするのだ。 そして今度は、その行為すらいつまで続けられるのだろうかと、疑問に思う。 「……なぁ、もし、俺が日記つけんの忘れてたら、教えてくれよ……?」 日記をつけていた事実すら忘れてしまえば、折角ここまで続けてきたことの意味がなくなってしまうような気がした。 少しだけ顔を上げた土方の言葉に、銀時は耳のあたりに唇を寄せながら、わかった、と頷く。 「お前が、忘れても、ちゃんと俺が覚えててやるから、安心しろよ」 「……あぁ……」 銀時の言葉にほっと息をつき、そのまま少しだけ顔をそちらに寄せ唇を合わせる。 お互いがお互いの唇を啄むように口吻を交わしながら、触れるだけのその行為を何度も繰り返した。 角度を変え、唇同士を深く重ね合わせる。 軽く舌を触れ合わせる戯れのような口吻はこの後の行為を連想させるものではなく、むしろこのままここで眠ってしまいたいとすら思うほど心地良いもので。 「……万事屋……」 無意識に閉じていた瞳を開いて銀時の顔を正面から見ると、交わった瞳の中に己の姿が映っていた。 銀時の腕の中が心地よくて、本当にとろりと意識が蕩けかけた、その時。 己の目に写った銀時の姿が、不自然に歪んだ気がした。 同時に、瞳を通して頭の中に描いていたその姿に、奇妙なノイズが掛かる。 まるで電波のおかしくなったテレビのようなその異変に、記憶が消えかけているのだと、直感で気づいた。 「……ぁ、……!」 頭を抱え、土方は零れ落ちていきそうな記憶を受け止めよう必至に記憶へと手を伸ばした。 「土方……?」 「ぃやだ、……! まて……!」 だが、記憶はまるで指の間を零れ落ちていく砂のように、掴むことが出来ないまま落下していく。 サラサラと落ちていく記憶の砂粒に、今までの銀時との出来事が、まるで走馬灯のように映っていた。 それは瞬く間に奈落へと落下し、見えなくなってしまう。その事実に、悲鳴のような声が漏れた。 唐突に錯乱したような土方の挙動に、銀時も今土方の身に降りかかったことに気づいたのだろう。 目の前の銀時の顔が焦ったように変わり、そしてその顔が脳に届く前に記憶から攫われていく事に顔面が蒼白になる。 藻掻いても叫んでも、砂はどんどん指の隙間から零れていき、それに従って耳鳴りがするかのような鋭利な頭痛が土方を襲った。 「……ぁ、あぁっ……――ッ!」 「土方! 土方、しっかりしろ!」 己を呼ぶ声がする。 だがその声すら、ともすれば誰の声だったのかと土方はこめかみを押さえその場に蹲った。 「土方!!」 必至に名前を呼ぶその声が、どこか遠い場所で聞こえたような気がしていやだと必至で足掻く。 忘れてしまう。 このままでは本当に、銀時を忘れてしまう。 この声を、この腕を、この熱を、この指を―― 『土方』 あの、笑顔を…… 「よろずやっ……!」 喉が焼き切れるかと思うほど悲痛な声で、その名前を呼ぶ。 「土方!」 呼ばれた声になんとか顔を上げれば、今にも零れかけている記憶と同じその顔が、蹲る土方の肩を掴んだ。 だが、止められない。 記憶が、零れ落ちていくのを止められない。 ノイズがかかり、記憶が乱れる。 渦を巻くように、全てが斑に飲まれていく。 「嫌だ、万事屋ッ…! 忘れる……お前を、忘れちまう……!」 「土方! 土方落ち着け!」 「いやだ! いやだ、いやだいやだ!」 錯乱したように、ただ銀時の胸に縋るしか出来ずに身体が震えを増す。 覚悟していたはずのその痛みは、だが今その現実を前にちっとも役に立ってなどくれない。 顔を上げれば瞳に映るのは、哀しい顔で。 銀時が、哀しい顔をしていると、土方は唇を噛んだ。 あぁ、やっぱり離れるべきだったのかもしれないと、痛みの片隅でそんなことををもう。 まだ、銀時が笑ってくれているうちに、もっと早くに、己は銀時から離れておけばよかったのかもしれない、と。 この期に及んでそんなことを考えてしまうのが、愚かなことだとはわかっていても。 それでも、そうすれば、斑に飲まれる最後の銀時の記憶は、きっと笑顔であれただろうに。 だが、初めに発作を起こして倒れた病院で、銀時を呼ぶことを許容していしまった時点で、己はこの事態に銀時を巻き込むことを、容認したも同然なのだ。 だからきっと、これは罰なのだろう 最後の砂粒にうつる銀時の顔が、笑顔ではなく憂い顔であることも。 そんな顔をさせているのが、他ならぬ、自分であることも。 「……よろず、やぁ……」 砂時計が落ちるまで。 銀時には、――笑っていて欲しかったのに。 指の間から落ちていくそれを、もうどうしたって、止めることなどできずに。 「ぃや、あっ……――」 目を見開いたまま息が詰まり、唐突にがくりと力が抜けた。 そうして乱れていた息を整えふと上を向くと、知らない男が、悲痛な顔でこちらを見下ろしていた。 「……、お前………誰だ?」 問いかければ息を飲み、その顔は一層痛そうに歪められる。 その酷く見慣れた表情の変化に、唐突に、理解した。 あぁ、きっと、次はこの男の番だったのだ、と。 |