砂時計が落ちるまで 10







 水面へと浮上するように、意識が戻る。
 後頭部にはまだ不快な鈍痛を感じたが、我慢できないほどの痛みではない。
 だが、浮上する意識に従って目をぼんやりとあけた土方は、己の逃亡が失敗したことをまず、悟った。
 己は確かに痛みで倒れ、路地裏のゴミを下敷きに気を失ったはずだ。
 だが今、その異臭を発していたゴミ袋は暖かい真っ白な布団へと変わり、目の前に広がる光景も和室の天井と糸を垂らした照明器具へと変わっている。
 だが、その天井は万事屋とはどこか違うような気がすると思いながら、土方は次第にはっきりとしだした意識で己のいる場所を特定しようと、部屋の中を見回し。
「……っ」
「よー、目ぇ覚めたか」
 縁側へと続く襖に寄りかかるように座っているその姿に、息を呑んだ。
「……万事屋……」
 掠れそうになる声でその名を読んで、咄嗟に起き上がろうとする土方に、だが銀時はどこかのんびりとした口調でそれを制した。
「あぁ、いーよ、そのままで」
「でも……」
「まだ辛ぇだろ。突然起き上がって、目眩起こしたらどうすんだ」
 いいから寝てろ、と。
 そう言いながらこちらへ移動してきた銀時に、思わず身体が怯えたように震えたのは無意識の事だった。
 だが銀時はそんな己の動作や、恐らく顔面蒼白だろう顔色には一切触れず、土方の身体を優しい手つきで布団の上へと寝かしつけた。
「……ここ、は……?」
 見たところ和室のようだが、万事屋でも、屯所でもない場所に戸惑う土方に、銀時はあぁ、と思い出したように布団の脇に腰を落ち着けて話しだした。
「ここは恒道館。お前、ゴミ捨て場で倒れてたんだって? 新八が顔面蒼白で、うち飛んできたぜ」
「……こうどう、かん……?」
 聞き覚えのない場所の名前に、何かの施設だろうかと首を傾げる土方に、銀時はそうか、と呟いた。
「新八忘れちまったんなら、芋づる式だよな……悪い。恒道館てのは、新八の家だ。アイツんち、道場やってんだよ」
「そこが、ここ?」
「そ、道場とは離れた、母屋の方。因みに今は朝の四時くれぇ。……どっか、痛むとこは?」
 そうして、問いかけられた言葉に土方は首を振る。
 その仕草に安心したようによかったと呟き、銀時は土方の上に下がってしまっていた掛け布団を引っ張って上げ、挙句よしよし、と撫でるようにその頭を撫でてくる。
 てっきり、バレれば烈火のごとく糾弾され最悪殴られると怯えていた土方にしてみれば、銀時の様子は予想外というより、むしろ理解できない種類のものだ。
 ぐしゃぐしゃと慈しむような手つきで土方の頭を撫で、最後に軽くぽん、とその頭を叩いて離れていく銀時の指に、困惑する。
 ひょっとしたら素知らぬふりをしたほうがよかったのかもしれない。
 むしろ下手に触れれば藪蛇かもしれないとも思ったが、どうしても我慢できず、土方はごく小さな声で銀時へと問いかけた。
「……怒って、ねぇのか?」
 銀時を気絶させ、勝手に万事屋を出て逃げようとしたこと。
 恐らく銀時が目覚めた時の状況を考えれば、土方がもうそこには戻らないつもりで外に出たことなど明白だっただろう。
 少なくとも、土方の気持ちに聡く気絶までさせられた銀時がそれに気づいていないはずはない。
 だが、銀時は土方の言葉に、だが少しだけ困ったような顔になった。
「……怒られるような事をした自覚はあるわけか」
「……あぁ」
 勿論、バレれば何らかの叱責は受けるだろうと、それは覚悟の上だった。
 だが、それでも――。
「それでも、……行きたかったんだろ。それが、お前の意思だったんだよな」
「……それは……」
「俺に怒られても、真選組の奴らを心配させても、それでもどうしても、あそこには居たくなかった。逃げたかった。……だろ?」
 叱責されると分かっていて、それでも行動に移したのはつまりそういうことだろう、と。
 告げられる言葉に、迷った末、土方は俯き頷いた。
「……あぁ」
 口から吐き出した肯定は酷く重く、土方の心へと伸し掛かる。
 逃げたいという気持ちに嘘はない。
 だが、それにより生み出される弊害をすべて逃げてなかった事にしてしまいたかった自分に気づき、そんな自分に落胆した。
 銀時の手のひらがまた、撫でるように己の髪を掻き混ぜる。
「どこに行こうと思ったんだ?」
「……武州に……戻ろうか、と」
「あー、なるほどなぁ……」
 確かにあそこなら、お前一人でも行けそうだな、と。
 妙に納得したような顔で頷く銀時に、土方はなぜ銀時は怒らないのだろうかと、唇を噛んだ。
 もっと、激しく糾弾してほしい。
 だって己はそれだけのことを、したのだから。
「……、叱って欲しい?」
 堪りかねて銀時から目を逸らした土方の頭上に、声が振る。
 弾かれたように顔を上げた土方の目に写ったのは、感情を読み取らせない銀時の死んだような瞳だった。
 無表情というよりも無感情な顔つきで銀時を見下ろす銀時に、土方は迷いつつ、言葉を発する。
「……テメェが怒るのは、当たり前だろ」
「なんで、当たり前なの」
「なんで、って……」
 そこで問い返されるとは思わず、土方は思わずといったように閉口する。
 そして改めて、なぜ己は、自分が逃げ出せば銀時が怒って当然だと考えたのだろうとその答えを探した。
 暫くの間口を噤んだまま考えこみ、そして最終的に行き着いた先は、良く考えて見れば酷く自惚れたもので。
「……テメェは、俺を好きだと、……だから、守るといってくれた。俺は、それを拒否した」
「うん、それで?」
「……好きな奴に、拒絶されたら、怒るだろう……」
 少なくとも自分ならば、もし逆の立場に置かれればふざけるなと憤慨するだろうと思い。
 だからこそ、銀時も同じように怒るのは当然だと、そう思っていた。
 だが、そこで唐突に行き着いてしまった答えに、知らず、身体に寒気が走って。
「ふーん、……でも、そこまでわかってるんならさぁ、なんで俺が怒ってないかも、もうわかってんじゃねーの」
 恐らく土方の表情から、既にそれを悟ったことは知られたのだろう。
 触らずとも血の気の引いた顔を銀時に向ける土方に、銀時はことさら優しい手つきで、土方の頬を撫でた。
「……きら…い、に……なったのか?」
 俺が、と問いかける声は酷く掠れ、正しく銀時に届いたかどうかも曖昧で。
 だが、幸か不幸かその声は届いていて、銀時は土方の言葉にんー、と髪をかき混ぜつつ唸った。
「好き、嫌いっつーか……、なんか冷めちまった、かなぁ……」
「冷めた……?」
「怒る気すら起きねぇってことは、それが一番近ぇかなって感じだけどな。別に嫌いになった訳じゃねぇとおもう。頑張り屋さんだねぇとか思うし、こいつしょうがねぇなぁ、とか、危なっかしいなとは変わらず思うけど」
 でも、今までとはなんか違ぇんだよなぁ、と銀時は言った。
「なんつーか、……だから、俺がこうしてやろう、みてぇな気持ちが失せたっつーか」
「……俺のことはもう、『どうでもいい』……か?」
 言った瞬間、心臓をきりで突き刺されたような痛みが襲い。
「……かも、な」
 更にそれを曖昧にでも肯定されてしまえば、それ以上の痛みに思わず気が遠くなる。
 土方を見る銀時の目には、これまで常に浮かんでいたはずの己を愛おしく映す光が失せてしまっている。
 今の銀時の瞳に映る土方十四郎は、銀時の愛した恋人ではなく、かぶき町の住人達や真選組の他の隊士達と変わらぬ、『その他大勢』にカテゴライズされてしまっているのだろう
 それはどう言い繕った所で、土方の自業自得にほかならない。
 銀時の熱を冷めさせたのは、己の行動故で、決してそれは銀時の過剰反応ではないだろう。
 なぜなら先に捨てたのは、土方の方なのだ。
「……あ、……」
「まぁ、別にここまで来てテメェを放り出す気はねぇし、乗りかかった船だしな。最後までちゃんと面倒はみるぜ」
「……よろず、や……」
「なんだ? あぁ、勿論辰馬にも調査は継続してもらうよ。……っつーか、別に嫌いになった訳じゃねぇし、そんな顔すんなって。ちゃーんと、万事屋銀さんが守ってやっから。な?」
 頬から耳の上を辿り、頭を撫でてくれる銀時の指は優しい。
 でもそれは、優しいだけだ。
 万事屋銀さんが、という銀時の言葉は、今この瞬間から土方を守るという行為が恋人だから当たり前にそうする事から、万事屋としての仕事に変わってしまったのだと、そう言われているのだと感じた。
 それは別れの言葉を言われるよりもよほど明確に、土方に対し銀時が壁を作ってしまった事を知らしめている。
 高い、高い壁。
 それは己が、大切な人間をまた失う事に怯える銀時を、己のエゴで蔑ろにした事への当然の報いに思える。
 銀時を悲しませないためではなく、そんな銀時を見る事に耐えられなかった自分を守ろうとした、代償。
 きっと目を覚ました銀時は、土方に裏切られたと感じただろう。
 捨てられて当然だ。
 いや、捨てられて嫌われたのならばまだマシだった。
 『嫌悪』という感情は、時に『愛情』よりも強い執着を対象に生み出す。
 だが、今銀時が己に対し持ち合わせているのは、嫌悪でも、まして愛情でもない。
 無関心。
 それは、好いた相手に向けられる感情の中で最も残酷で、そして最も、動かすことが難しい思いだ。
 もう銀時は土方がどこで誰と何をしようと、嫉妬も、嫌悪も、まして憤慨もしないだろう。
 どうでもいいのだ。
 今の銀時にとって己は、真選組から護衛を頼まれた一隊士程度の認識であり、きっと、それ以上でもそれ以下でもない。
 どく、どく、と必要以上に心臓が脈動を繰り返し、だがどんなに沈めようとしても不自然な動悸は収まる気配を見せず。
 いやだと、捨てないで欲しいと今銀時に縋り付いたところで、きっと銀時は眉根一つ動かさないだろう。
 そしてきっと、少し困ったような顔をして言うのだ。
『何いってんの。もういらねぇから、俺を捨てたんだろ?』
 と。
「あぁ、そうだ。お前が目ェ覚ましたら呼んでくれって、松本先生に言われてたんだっけ」
 その時、唐突に銀時がその場に立ち上がり、どこか呆れたような顔で土方に溜息を付いた。
「……え……」
「おめぇ、ゴミ捨て場で倒れてたんだろ? 今度こそどっか痛めてんじゃねぇかって、すげぇ心配してたぜ。意識戻ったら起こしてくれって、今仮眠取ってる。」
 起こしてくっから、と告げて踵を返す銀時を呼び止めなければと思うのに、まるで声帯が凍ってしまったかのように、声が出ない。
 それなら裾を掴んで思うのに、体全体が鉛でも乗ったかのように重たく、動かすことが出来ずに。
 きっと、このまま部屋を出てしまえば次に戻ってくるのは松本だけだ。
 土方が目を覚ました以上、恋人ではないと公言したも同じな銀時が、土方の傍に付きそう必要はない。
 先程銀時は今の時刻は朝の四時だと言っていたし、きっと銀時だって睡眠を取りたいはずだ。
 ならば寝かせてやりたいと思うのに、その離れていく背中に息が止まりそうになる。
 迷いない歩調はまっすぐに廊下へと向かい襖を開けて、その向こう側へと敷居を跨いだ。
 ここで離れてしまえばもう、取り返しがつかないと、そんな予感が頭を過ぎり、脳内を意味のない懇願がこだまする。
 いやだ、いくな、いかないで、待って、待って……――、待って。
「……銀っ……!」
 まるで悲鳴のような声で、その名前を呼びかけて。
 だが、布団から強引に跳ね起きた土方の声を遮るように、その名前を呼び終わるのを待たず、襖は閉められた。
 そしてまるで、土方の声など聞こえなかったかのように、襖の向こうで銀時の足音が遠ざかる。
 声が、聞こえなかったのだろうか、と、そんな現実逃避のような事を考える。
 だって、聞こえていたのなら銀時が、土方の声を無視するなど有り得ないと。
 それは今持って、ただの自惚れでしかなくなってしまったのだと、思う。
 もう、銀時の中で土方は特別ではない。
 もう、土方の呼びかけに、銀時が答える義務などない。
 ましてあんな、縋る様な鬱陶しい懇願に振り返る必要がなくなってしまったのだ。
 もう恋人では、ないのだから。
「……銀、時……」
 呼びそこねたその名前を呟いて、そういえば結局この数年間で名前を読んだ事など片手にも満たないほどだった事を思い出した。
 そして、後数日もして銀時のことを忘れてしまえば、もう、二度と呼ぶこともなくなってしまうのだろうか。
 不意に、そういえばこれでもう、土方が銀時を忘れてしまっても、銀時が悲しむことはないのだと気づいた。
 思えば、それはあの場を逃げ出した土方の望んでいた事のはずで。
 銀時の悲しむ顔を、みたくない。もうこれ以上銀時を苦しめたくない。
「……は、……はは……」
 なんだ、これで願いが叶ったではないか、と。
 口から漏れる乾いた笑いに、酷く泣きたい気分になって。
 だがそんな自分の願いのために己が失くしてしまった存在と、彼に失くさせてしまった存在の大きさに、押しつぶされそうな恐怖が襲い、身が竦む。
 まるで、奈落に突き落とされたような途方も無い虚無感にもう嗤うことさえできずに。
 ふらりと力が抜けた身体は、そのままもう一度布団の上へと沈んだ。
 これから、己のことなどもうどうでもよくなってしまった銀時と共に、あの万事屋に戻るのだろうか。
 きっともう夜中に土方が不安そうに眠れずにいても、銀時が己を布団の中に招き入れてくれたり、熱を分け合う行為で寝かせてくれたりすることは、もうない。
 あれはある意味、己と銀時が恋人であったことを利用したオプションセラピーみたいなものだから。
 そして、この病気が治っても、治らなくても、最終的にはもう銀時は己のものではないのだから、あの万事屋を後にする日がきっときてしまう。
 そしてもう二度と、銀時が土方を愛しい目で見つめ、いらっしゃいとあの玄関から迎え入れてくれることなどないのだと思った。
 少しずつ、少しずつ、闇の中へと意識が落下していく。
 だがそれはどこまで落ちても底の見えない、まさしく奈落だと、そう感じた。
 そうして、どのくらい布団に身を預けていただろう。
 不意に、廊下の向こうから足音が響く。
 規則正しい音階で敷板を踏むその音に、そういえば銀時は松本を呼んでくると言って出て行った事を思い出した。
 だが、こんな状態で診察などまともに受けられる気はしなくて、しかしそのために制止の声を発する気力が湧いてくれず、唇が震えた。
「……銀時……」
 やっと言えた言葉は、ただそれだけで。
 もう一度口を開こうとしても、やはり唇は銀時の名を呟いてしまう。
 正常に思考が回ってくれず、ひょっとしたら自分はもう、その言葉しか発することはできなくなってしまったのだろうかと。
 そんな馬鹿な事を本気で考えた、直後の事だった。
 迷いなく開かれた扉の向こうに感じた気配に、土方は弾かれるように顔を上げる。
 そこに目に入ったのは、見慣れすぎた、銀の髪を四方に散らしどこか眠たげな目でこちらを見る紅い瞳の男。
 一瞬彼を恋しがるあまり己が見せた幻かと思ったその姿は、間違いなく、先程この場を去った銀時のもので。
「………ぁ、……」
 なぜ、ここにいるのかと。
 だが気まぐれでも戻ってきてくれたのかと思えば嬉しくて、しかしよく見れば銀時の後ろに松本がいないことに気付いた。
 なぜ、銀時は松本を呼びに行ったのではと戸惑う土方の姿を、銀時は敷居の向こう側で腕を組んだままじっと見下ろしている。
 そしてその目は先程とは違い、どこか、『怒った』ように細められ。

「反省しましたかぁ?」

 そして告げられたその一言、に。
「……あ、」
 土方は、――すべてを悟った。
 眼窩に込み上げる涙を必死で耐え、瞳をキツく閉じる。
 泣いてはいけない。
 そんな権利など、己にはない。
「…………っ、はい」
「何か、俺に言いたいことは?」
「………心配、かけて……すみませんでした」
 再び掛け布団に顔を埋めるような体勢で謝罪の言葉を吐く土方に、不意に、着流しの袖口をくい、と引っ張られる感覚がする。
 恐る恐る顔を少しだけあげると、いつの間に敷居を跨いだのか、銀時が土方の直ぐ脇に片膝を付いて腰を下ろしていた。
 そして誘うように「ん」、と手を広げる銀時の仕草に、もう一度触れてもいいのだろうかと迷う。
 だが、すぐに迷いよりも触れたい欲求が溢れだし、土方はゆっくりと銀時に向かって手を伸ばした。
 その動作が、銀時にしてみればじれったいように映ったのかもしれない。
 伸ばしかけた腕の手首を捕まれ、そのまま引き寄せられた身体は銀時の腕の中へと抱き込まれる。
 たまらずに背中へと手を伸ばしその身体に縋る土方を、銀時は骨が軋むかという強さで抱きしめた。
 その痛みさえ、今の土方にはどうしようもない安堵を与えてくれる。
「……どんだけ、心配したと思ってんだ」
「……あぁ……、すまねぇ……」
「ほんとにな! 心の底から後悔して反省して悔い改めやがれコノヤロー!」
 怒鳴りつけるような粗野な言葉とは裏腹に、銀時の腕や手のひらは慈しむように土方の身体に触れる。
 もう二度とこんな風に抱きしめられることなど叶わないだろうと、それを覚悟していた土方にとってその身体に与えられる熱は心地よくて、胸が絞られるようだった。
「……無事で、よかった……」
 これでまた、テメェを守れる、と。
 銀時の口から零れた言葉に、どうしようもない感情の波が押し寄せ土方は銀時の着流しを握りしめる。
「……悪かった……、もう、しねぇから……もう、……逃げたりしねぇ」
 その身体をしっかりと抱きしめたまま、土方は銀時にそう約束した。
 病からも、そして銀時からも、もう逃げないと土方は銀時に誓う。
 己が銀時を失うのと同じか、それ以上に、銀時が己を失う事に恐怖を覚えているのだと、今土方は身を持って知らしめられた。
 銀時はもう一度土方の姿形を確認するようにその身体に満遍なく触れ、少しだけ体を離し、瞳を交わらせる。
 不意に近づく銀時の顔に、そのまま自然な動作で目を閉じた土方の行動は、ほとんど無意識に近いものだったのだが。
 唐突に、額に覚えのある軽度な痛みが走り思わず額を抑える。
 驚いて目を開ければ、案の定指を弾くような形で土方の額の前へと銀時の指か翳されていて、頬に朱が走った。
「な、っ」
 所謂デコピンをされたのだと悟った土方が咄嗟に文句を言おうと開きかけた唇を、まるで覆うように銀時の唇が塞いだ。
 そのまま言葉も、動作も、すべて飲み込むかのように口吻られれば、文句など言うすべもなく自然と体の力が抜けてしまう。
 長く交わり一度離れた唇は、最後に一度だけ軽く触れて離れる。
 そして自業自得だというように戯れに舌を出す銀時に、土方文句も言えずに押し黙った。
 わかっている。土方の立場で、今銀時に何を言った所でそんな権利などないことぐらい。
 黙ったまま顔を伏せる土方の頭を、宥めるように銀時の手のひらがが撫でていく。
 そして名残惜しそうに土方をもう一度抱きしめてから、銀時はよいせ、とその場に立ち上がった。
「じゃあ、今度こそ松本先生呼んでくっから、待ってろよ」
「あ、いや……でも、別に身体に異常はねぇし、大丈夫だぜ? ……先生、叩き起こすほどのことは……」
「だーめ。お前の口から出る大丈夫を、俺は今全面的に否認する方向なんだよ。っつーか、誰忘れてるかの検証もしねぇといけねぇだろ。」
 大方、沖田くんじゃねぇかと思うけど、と呟かれた銀時の言葉に、首を傾げる。
「……オキタ……?」
 銀時がそう言って己がわからないということは、銀時の予想は正解で、己はその『オキタくん』を忘れてしまったという事なのだろうか。
 そんな土方の表情に、ハイ正解、と溜息混じりに呟き、銀時は襖の方へと踵を返す。
 一瞬、その銀時の動作に先程の恐怖が蘇ったが、そんな土方の気持ちすらお見通しなのだろうか。
 銀時は襖の手前で一度振り返り、戻ってくっから、と告げた。
「先生と一緒にちゃんと戻って来っから、変な心配しねぇでちゃんと寝てろよ。まぁ、起きててもいいけど布団は被ってること」
 いいな、と告げるその言葉は恋人というよりどこか母親のようで、だが今は反抗したりせず、素直にその言葉に従おうと、そう思った。
「……あぁ、わかった」
「ん、素直で宜しい」
 どこか笑うような口調でそう言って、銀時は襖を閉めてその場を去る。
 今度は先程のような焦燥は襲ってこずに、土方は布団へと戻ると足のあたりまで落ちてしまっていた布団を再度引っ張りあげて腰までを覆った。
 松本と銀時が戻る間、土方は手を握って開いたり腕を回してみたりして、己の身体状態を確かめてみた。
 だが、特に目立った異常はなく安心していると、暫くして白衣の裾を整えながら松本が部屋へと現れる。
 その後ろから銀時が敷居を跨ぐのを目に止めれば、分かっていたこととはいえやはり安心した。
「おはようございます、先生。その、……すみませんでした」
 きっと、この人にも心配や迷惑を掛けただろうと謝れば、松本は大丈夫だよ、と首を振り柔らかい笑みを浮かべた。
「無事なら、それが何よりだ。……もう、落ち着いたかい?」
「はい。あぁ、ただ……今度は、……オキタ、という人物のことを」
「あぁ、そうらしいね。とりあえず先に体を見せてくれるかい?」
 話はそれからゆっくりとだ、と告げる松本に、土方は頷いて着流しを上半身だけ肌蹴る。
 聴診器を首から耳に映す松本の様子から、その後ろの心配気な顔をする銀時の顔までを辿り、土方はもう一度己の記憶を反芻した。
 オキタ、とは一体誰だったのだろう、と考えて。
 その時不意に、頭の隅を小さな子供の姿が過ぎった。
 思わずはっと身体を揺らした土方に、聴診器を当てかけていた松本が一度その手を止める。
「……土方君? どこか、痛むかい?」
「土方、そうなのか?」
 そして松本の言葉に慌てたように腰を下ろす銀時に、土方は大丈夫だろ首を振った。
「いや、なんでもない……っつーか、……」
「なんでもいい。なんかあったなら、ちゃんと言え」
 なにか病を治す緒になるかもしれないだろう、と真剣な顔をする銀時に、土方はしどろもどろに口を開いた。
「なんかってほどじゃねぇけど……今なんか、こう、頭の隅に子供がちらついて」
「子供? どんな」
 どんなと言われても本当に一瞬だったから良くは思い出せないが、土方は一瞬だけ見えたその姿を懸命に追った。
「……髪は、短くて……和装で、……ちょうど、十歳かそんくらいの」
「性別は?」
「多分、男……着てたのが、袴か剣道の道着みてぇだった、から」。
 分かるのはそれくらいだという土方に、松本と銀時が顔を見合わせた。
「……それ、沖田くんじゃねぇかな」
 そして、銀時が告げた言葉に土方は驚く。
 例の頭痛で消える記憶は、己にとって近しいものだと聞いていたから、そんな小さな子供と己になんの由縁があったのだろうか、と。
「……真選組に、関わりがある子供か?」
 もし何かあるとすればそれくらいだろうと問いかける土方に、銀時は違ぇよ、と首を振った。
「多分、オメェが見たのは沖田くんの子供の頃だ」
「君達は武州時代からの親友だと聞いているから、その当時のものではないかな。とくに近藤さんと土方君、それに沖田くんの三人は、真選組結成の立役者だからね。沖田くんは今、一番隊の隊長を務めているよ。まだ二十歳になったばかりのはずだけど、剣の腕ならば真選組内では右に出るものはいないだろうね」
「俺や、近藤さんでも……?」
「さぁ、どうかな。近藤さんとの戦績は知らないが、土方さんが沖田くんに勝つのは『珍しい』ことだと聞いたことがあるよ」
 それでどの程度の強さなのかは予想がつくだろうという松本の言葉に、正直、土方は心底驚いていた。
 己の剣の腕には、一応それなりに自惚れではない程度の自信は持っている。
 その己と刀を交えて、己が負けるのが普通、とは。
「……その彼に、会えますか……?」
 できれば、会って話がしたいと問うような視線を投げる土方に、だが銀時と松本は一瞬だけ驚いたような顔をした後、示し合わせでもしたように少しだけ困った顔になった。
「いやー……、まぁ、一応打診はしてみるけど……、」
「……今、いないのか?」
 どうも直ぐに会うことは難しいだろうというような口調の銀時に問いかければ、その顔はますます困ったように目を逸らされる。
「いや、いるんだけど……あー、誤解しないで聞いて欲しいんだけど、その、お前ら、あんま仲良くないっつーか……沖田くんが一方的に嫌ってるっつーか……」
「……? でも、俺の方にはあの頭痛で忘れる程の思い入れがあった、んだよな」
「勿論、双方大事な相手だとは思っているだろうけど……、沖田くんは難しい年頃だからね。特に彼は昔から近藤さんに懐いていたらしいから、多分近藤さんに特に信頼されている年上の君の存在が、どうしても気に食わないというか……、認めたくないんだろうね。君にとっては多分、弟のような存在だと思うんだけれど」
「……、わかりました。なんとなく、ですけど」
 詳しい事情は察するしかないが、確かにこの銀時と松本の言動を見れば、己と『沖田くん』が決して友好的な関係ではなかったことくらいは分かる。
 もう無理には頼みませんからと首をふる土方に、銀時は曖昧に笑った。
「まー言うだけ言ってみるけどな」
「あぁ、……すまねぇ。……あ、先生すみません。診察を続けて下さい」
「あぁ、そうだったね。じゃあ、息を吸って……吐いて……」
 聴診器の触れる感触を胸のあたりに感じながら、土方はもう一度己の中であの少年の影を追おうとした。
 だが、先程見えたその影はもう土方の中には現れてはくれずに、同しようもない寂しさが襲う。
 記憶には、勿論ない。
 だが己の身体がその存在を忘れてしまったことに対し寂しさを訴え喘いでいる事は、事実だと感じた。
 程なく診察は終わり、幸いにも体調不良と呼べるものは寒空で倒れていた故の微熱程度で済んだらしく、銀時がほっとしていることに安心する。
 だが、この気持もあと数日で消えてしまうのだろう。
 正直に言えば、己が大切に思っていたのだと聞かされている真選組ですら、恐らくもう以前のような思い入れは薄れてきてしまっているのでは、と思う。
 万事屋に居候を始めてから過去や現在のことを書き綴った日記を都度読み返して意識を過去となるべく同調させる努力をしているからこそ、意識の齟齬が最小限で済んでいるのが現状で。
 だが、このまま喪失が続けばそれもいずれと、そう思っていると、不意に廊下の奥から敷板を走るように踏み鳴らす足音が響いた。
 そしてそれは、己のいる部屋の前でピタリと止まる。
「失礼します、山崎です」
「おー、入っていいぞ」
 土方がどう返事をしたらと考えあぐねている間に銀時がその答えを返した。
 その声に失礼しますと部屋の中に入ってきた山崎は、手元の資料を見ながら報告します、と話し始めた。
「先程、副長が沖田隊長を忘れてしまった事を踏まえた結果、例の頭痛が起こる周期が漸く分かりました。恐らく、六の倍数で頭痛が起こっているものと思われます」
「六って、えらく半端だな」
 七なら一週間だけどさ、と指折り数えていう銀時に、山崎は報告書をめくった。
「江戸城の書庫にあった夢獏の書物を調べたところ、あの星の一週間のような区切りが地球で言う六日分の時間であることが分かりました」
「でも最初に倒れてから山崎忘れちまうまで、結構あった気がすんだけど……」
 半月くらい? と問う銀時の疑問は、土方も感じていた。
 そこに法則性があるような事は聞いていたが、どうにも無規則な感が否めなかったのだが。
「だから、倍数ですよ。つまり、副長が夢獏にむかったのが先月の頭。そこから数えて最初に倒れたのは約一ヶ月後。この間を二十四日と仮定します」
「そういえば、この病の発症には四、五日掛かると聞いたね」
「でしょう? そこからははっきりしてます。最初に倒れてから、俺を忘れるまでは十八日。六日掛ける、三です」
「あ、……そういや山崎忘れてから昨日まで、十二日経ってるな……」
 万事屋に来て初めて土方が倒れた日のせいか、その記憶は色濃い。
 確か、今月二十日の事だった。
「じゃあ、つまり……」
「そうです。このままいけば次の頭痛は五日後。対象は、恐らく旦那か、もしくは局長かと」
「いや、……恐らく近藤さんだ」
 どちらを忘れてもおかしくはない状況ですと言う山崎に、だか土方ははっきりとそう告げる。
 山崎が一瞬、驚いたように瞠目した。
「え、どうして、ですか……?」
「どうしてって……、……もう、忘れ始めてっからだよ、万事屋のことは」
 それを口に出すことに、こんなに勇気がいるとは思わなかった。
 だが、恐らく銀時自身はもうそれに気付いているだろうから、後は己が認めるだけだったのだと、そう思う。
 案の定、山崎と松本が酷く驚いているのが分かった。
「え、で、でも、今普通に会話してますよね……?」
「まだそこまで進んじゃいねぇけど、……まぁ、一週間は持たねぇだろうな」
「では、数日中に彼を忘れ、そして五日後、近藤さんを……?」
「そういうことだと、思いますよ」
 突然見え始めた終末に、もっと取り乱すかと思われていた心は妙に冷静だった。
 むしろ己より山崎や松本の方がどこか取り乱した様子なのが少しおかしかった。
 だが、こんなに心配してくれる人達がいることに、今は素直に嬉しさを感じる。
 そして恐らく銀時は、己と同じ冷静な部類だろうと思って、視線を向ければ案の定だった。
 ただその顔に浮かぶのはどこか寂しい笑みで、わかってはいたものの申し訳なさが募る。
 そして、ここに来て漸く、土方の中である決心が芽生えた。
 本当は、もう少しだけ有耶無耶にしておきたかったけれど、もう、本当に時間がないのだということが分かってしまったから。
「……山崎、頼みがある」
「はい、なんですか?」
 こんな、役立たずになってしまった副長に、それでも敬語を使い尽くしてくれる山崎の存在は、本当に有り難いものだと、そう思う。
 だが、その好意にいつまでも、甘えていていいはずがない。
 それに、どう頑張った所で後一週間で、己の病が綺麗サッパリ治るなど、そんな夢見がちなことはないだろうと思う。
 いつか、治るかもしれないが、それが今ではないのなら。
「……退任の、準備をしてくれ」
 役立たずは役立たずらしく、引き際くらいは綺麗でありたいと、それは多分己に残すことが許された、最後のプライドだ。
「副長……」
「最後のケジメは、まだ、覚えている内に自分でつけてぇ。……我儘かもしんねぇけど、……頼む」
 これが最後の横暴だと思って、聞いて欲しいと。
 布団の上で頭を下げる土方に、山崎があからさまに動揺しているのが分かる。
 そして助けを求めるように銀時の方を見たのが気配で分かり、土方は顔を上げた。
「テメェも、反対するか?」
 山崎の視線は、明らかに銀時に己を止めて欲しいと懇願するようなものだ。
 その視線を受けた銀時に、お前も山崎と同意見なのかと土方は問いかける。
 銀時は、山崎と土方を交互に見やり、そしてふっと溜息を落とした。
「したって、曲がんねぇだろ、お前は」
「旦那!」
「土方が腹括ったんだ。その意味が、おめぇならわかんだろ」
 誰よりも、一番近い場所で土方を見続けた山崎ならばその決意の意味を知っているだろうと。
 問いかけられた言葉に、山崎は押し黙る。
「……近藤さんを、呼んでくれ」
 頼む、と。
 山崎に向かって土方は頭を下げた。
 この行為が、山崎達部下を裏切ることになるとわかっていて、それでも。
「……、……わかりました」
 重い肯定の言葉を落とし、山崎はその場に立ち上がる。
 一礼をして襖の向こうへと去っていくその姿に、申し訳なさが湧き上がる。
 だが、もう決めたことなのだと、土方は布団の端を握りしめた。
「それじゃあ、私も病院に戻ろう」
「あ、ありがとうございました。先生」
 礼を告げる土方に軽く手を振って、松本が山崎について襖の向こうへと去っていく。
 その行動が、恐らく己を銀時と二人にするためのものだということはわかっていた。
 松本が己と銀時との関係に気付いているかどうかはわからない。
 だが、気づいていてもおかしくないとは思っていたし、それを今更隠そうという気はなかった。
 そして今、その気遣いをほんとうに有難いことだと、そう感じている。
 不意に伸ばされた銀時の腕に、土方は素直に身を任せた。
 あと、数日なのだ。
 今くらい、素直になってもいいだろう。
 どうせ後から羞恥を感じてのた打ち回る頃には、その記憶すらないのだろうから。
 土方を守るようにその身体を抱きしめてくれる銀時の腕の中で、土方は消え行く記憶を追うように目を閉じた。
 真選組は、土方の全てだったのだと思う。
 だからこそ、それを忘れゆく事がこんなにも悲しい。
 でも、何よりも大切だから、それを己の勝手でこれ以上振り回すわけにはいかないと感じた。
 副長が長く不在でいれば、それだけ組織は違和感の中で停滞する。
 そして土方自身が真選組のことを忘れてしまうのならば、同じように真選組にも、土方を忘れてもらわなければいけない。
 その幕引きを己の手によってしたいというのは、土方の我儘だろう。
 最後の最後まで、諦めずにあがいて欲しいと、そう言われても仕方がないと思っていた。
 だが、それでも、このまま記憶を失い続ければ、恐らく最後は己のことすらわからなくなってしまうかもしれない。
 そうなって、自分以外の人間の手で決断を下され、真選組から除名される。
 それが、土方にはどうしても耐え難かった。
 自分への終止符は、自分で打ちたい。
 そして、いつかなにかのきっかけでこの病に打ち勝つことが出来た時、まだ真選組という組織が存続していることが土方のなによりもの願いだった。
 その時は全く違った視線から、一人の男としてひっそりとその存在を見守ることが出来たら、それでいい。
 土方にとって、近藤の存在は真選組の魂だ。
 つまり魂を失ってしまえば、それは生きていないも同じものになる。
 恐らくその存在ごと、記憶から全て一緒に持ち去られるだろう。
 そうなったら一体、己に何が残るだろうか。
 真選組を失った自分など、想像したこともない。
 だが、それは五日後、逃げようとした所で決して逃げられない現実として土方を襲う。
 無意識に震えだす身体を宥めるように抱きしめてくれる銀時の腕でさえ、もうあと僅かな時間の記憶しか許されない。
「明日、っつか、もう今日だけど……落ち着いたらうちに帰ろうな」
「……あぁ」
「帰る時、新八にちゃんと礼言えよ」
「……あぁ、わかってる」
 新八、とその名前を反芻し、記憶の中だけで言えば一度だけあったことのある少年の姿が脳を過ぎった。
 せめてその記憶がまた消えてしまう内に謝らなければと思いながら、土方は銀時の腕の中にその身を委ねるように目を閉じた。


 *     *     *


 翌日。
「随分世話になった。……迷惑をかけて、すまねぇな」
 会釈とともに玄関先でそう告げる土方に、新八は気にしないでください、とでもいうように手を振る仕草を返した。
「そんなことより、無事で良かったです。あの……、もう、無茶しないでくださいね」
「……そうだな」
 己の無茶と無鉄砲が周りに掛けた迷惑を思えば、ここで反論する気にはならなかった。
 もうしない、と新八に告げ、土方は待たせていた銀時から渡されたヘルメットを被り、その後ろへと跨る。
「それじゃあ、お大事に」
「おー、ありがとな」
 そう言って銀時が新八の頭をぐりぐりと撫でるのを微笑ましく感じ、程なくベスパは発進した。
 その後部座席で銀時の身体を間近に感じながら、土方は心のなかである決心を固める。
 銀時へ。
 真選組へ。
 そして、それらを忘れてしまうはずの自分へ。
 最後に、せめてもの償いをしてから終わりを待とう、と。





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