砂時計が落ちるまで 9







「まだ気にしてんのか?」
 不意にかけられた言葉に顔を上げると、髪をタオルで乱雑に拭いながら襖を閉める銀時がこちらを見下ろしている。
 風呂から上がったのか、銀色の濡髪から水滴がぽたりと畳に落ちた。
 土方自身は既に湯を浴び、銀時に風呂を譲ってから今まで、部屋の中でぼんやりと窓の外を眺めていた。
 ガラスこそ開いていないものの、やはり窓の傍は室内に比べて外気温が低い。
 お陰で良い熱冷ましになったのが、銀時の目からは湯冷めをしているように見えたのだろうか。
 またそんな薄着のままで、と銀時が傍にあった羽織を土方の無防備な肩に落としてくれる。
「身体、冷えるぞ」
「のぼせ気味だったから冷ましてただけだ。……昼間のことなら、もう気にしてねぇ」
 銀時に怪我をさせた失態で落ち込み、また物思いに耽っていたと思われているのだろう。
 確かに銀時の事を考えていた、という意味では当たっているが、今は罪悪感よりもこれから行う己の行為についてで頭がいっぱいだった。
 万事屋を出る。
 そう、決意を固めた土方がまず考えたのは、穏便に此処を離れる方法はないかという選択肢についてだった。
 なにも黙って消えるだけが方法ではない。
 話し合いの後、土方が銀時の側以外の安全な場所に身を落ち着ける事が出来ればそれがベストだと思う。
 だが、それには超えなければいけない障害が多すぎる上に、ある程度の準備期間がかかる事が予想された。
 正直、頭を冷やして考えてみれば、銀時に黙って行動することは真選組を捨ててしまうことにもなりかねない。
 しかし、これまでのペースを考えれば土方が銀時を忘れるまで、もう長くはないだろう。
 あの日記には、断片的に記憶を消している部位や喪失の経過状況も、土方はその全てを逐一記録していた。
 その情報から得た検討の結果、付き合いが長いと推察された人間でも一度忘れ始めてからその全てを取りこぼしてしまうまで平均一週間程しか経っていない。
 沖田の姉で土方が初めて愛した人だと銀時から教えてもらったミツバという女性でさえ、万事屋に映った数日後には既に全てを忘れてしまっているようだった。
 だとすれば、穏便に話し合いをしている時間など土方には残されていない事になる。
 寧ろ一刻、一秒でも早くこの場を離れなければ、今リミットがくるかもしれないのだ。
 そう突き詰めて考えていけば自然、その手段は次第に穏便ではない方へと転がっていくのは仕方のない事で。
 どのみち、このまま記憶を失い続けていけば、あの地位に戻ることなどもう、叶うことはない。
 この病の治療法がそんなに短時間で都合よく見つかる確率など限りなく低いことぐらい、もう誰もが予想し、あえて口にはしないだけだ。
 ひょっとしたらもうこのまま、全てを忘れて諦めてしまったほうが楽なのだろうか、などと、そんな投げやりな考えさえ頭に浮かぶ。
「まぁ、それならいいけどよ……」
 鋭い男だから、土方の様子が常よりも沈んでいる事には気づいているだろう。
 だが幸か不幸か、それは昼間の一件故のことだと、銀時がそう勘違いしてくれていればいい。
 正確には勘違いとも言い切れないが、それよりももっと気付かれたくない腹を抱えている身としては、そこで銀時の思考が止まってくれていれば好都合だった。
「……、寝ねェの?」
 気にしていないと、そういったっきりまた外を眺めはじめた土方に銀時が問いかけてくる。
 その土方を心配する銀時の声に、やはり、これ以上この優しい男を苦しめてはいけないと、土方は腹を括った。
 真選組の件は、一先ず銀時と離れてから考えようと頭の隅に一度押しやる。
「……俺は少し起きてる。テメェは寝ていいぜ」
「いや、お前を窓辺に置いたまま寝るとかありえねぇから」
「眠くねぇ」
 だから、寝ないと。
 簡潔な拒否をする土方に、銀時が溜息を付く。
「……なんか欲しいものあるか?」
 そうして、土方の思惑通りそう問いかけてきた銀時に、土方はチラリとそちらを見やった後、少し考える仕草をした後、答えを投げた。
「じゃあ、……眠れるように、してくんねぇか?」
 その言葉の意味は、またずとも理解できただろう。
 銀時が一瞬酷く驚いた顔をして、優しい仕草で土方の頬を撫でた。
「……積極的なのは嬉しいけど、身体、つらくねぇ?」
「俺がいいって言ってんだ」
 早くしろ、と。
 誘うように、土方は自ら腰を結いていた帯を引っ張って緩め、前身頃を肩から落とすように銀時を誘う。
 いつになく積極的な土方の様子に思わずといったふうに銀時の喉がなり、その腕は土方の肩を覆ったままの身頃へと伸びる。
 そのまま肌を擦り寄せるようにして抱きしめ合い、土方は銀時の身体をぎゅっと抱きしめた。
 これが、きっと最後になるはずだから、この腕をよく覚えておこうと、そう思いながら目を閉じる。
「土方……」
 口吻を誘うような銀時の声色に引かれるように口付けを交わす。
 唾液を擦り合わせるように舌を絡ませ合い、程なく唇は一度離れた。
 そうして、銀時が土方の眼の色をじっと見つめ、今度は頬へと口吻を落とした、その刹那。
「……っ、ぐぅ……!」
 鈍い音とともに銀時が目を一瞬見開き、そのままがくりと力を失った。
 倒れこむ銀時を両腕で受け止めて、土方は無性に早く感じる心臓の上を抑える。
 己の思惑通りに事が進んだ事を確かめようと、倒れこんだ銀時の身体を反転させる。
 そして、その意識が完全に失われている事をこの目で見届けて漸く、荒かった息が少しだけ正常に戻る。
 無意識に銀時の腹を撫でたのは、そこを殴打したことにより気を失わせてしまったことへの罪悪感だった。
 痛みを感じる方法はなるべく避けたかったが、この他に土方より遥かに戦闘に長けた銀時を出し抜く方法が思いつかなかったのだ。
 銀時が、土方の前で自ら目を閉じる可能性があるのは、キスの時だけ。
 頬への口吻ならば土方が僅かに身動ぎを見せても、銀時はそれを不審に思うことはない。
 だが銀時相手に不穏な気配を感じさせずに事を終える自信などなく、いうなれば捨て身の戦法だった。
 そして、幸か不幸か、それは達成された。
 その証拠にいま自分の目の前には、意識を失った銀時がその身を土方に預けている。
 こうなった以上、もう後戻りはできない。
 土方は帯を抜いていた夜着用の着流しをその場に脱ぎ捨て、タンスの中から適当な外着を引っ張りだしそれを身に付ける。
 次いで、銀時をなるべく呼吸をするのに楽な姿勢へと寝かせ直し、その上に布団から剥がした毛布を風邪を引かないようにと掛けた。
 本当は布団まで移動したほうがいいとは思ったが、むやみに動かして目を覚まされてはまずい。
 土方は、今更ながらに湧き上がる此処にいたいという欲求を振り切るように、文机の中に閉まっていた財布と日記、それに置きっぱなしだった携帯を懐に収め、立ち上がった。
 日記を持っていくのは、今後どこかで身を落ち着け生活をしていくつもりなら、記憶を書き綴ったこの和綴じが必須だと、そう考えたからだ。
 最後に、枕元のに置いていた刀を脇へと差す。
 幸い、財布の中に幾らかの金も、クレジットカードもある。
 当面の生活費には困らない程度の額の蓄えは、してあるつもりだった。
「……、これが正しいなんて、俺だって思っちゃいない……でも、」
 こうするしか、もうどうしようもないんだと、土方はひとりごとのように、気を失った銀時へと呟く。
 これが最善の方法とは思わない。
 時間をかければもっと、いい解決法など幾らでもあっただろう。
 だが、今の土方にはもう、時間が残されていない。
 だから。
 これで、最後だと、土方は意識を途切れささせた銀時の脇へと跪き、許しを請うようにも頭を垂れながら、その唇へと口吻た。
 そして、立ち上がり未練を断ち切るように踵を返し、襖を開ける。
「……許してくれ、な」
 きっと、許しては貰えないと思った。
 だが、それでいい。
 いなくなった己を、探してなどくれなくていい。
 初めは、きっと酷く悲しんでくれるだろう。
 だが、その後は出来れば、憤慨して、罵って、落胆して、呆れて、そして、忘れてほしい。
 こんな自分勝手で最低な男のことなど、早く忘れてしまえばいい。
 忘れて、そうして、――幸せになってほしい。
 ぴたりと襖を閉じて、土方は何度も行き来した応接間から廊下への道を辿り、玄関へと向かった。
 この家に入るのも、きっと今日で最後になるだろう。
 玄関のガラス戸をなるべく音がしないようにとゆっくりと開き、土方は万事屋に身を寄せてから初めて、一人でこの玄関の引き戸をくぐった。
 時刻は十時を回ったあたりで、歓楽街は今が稼ぎ時だ。
 それを幸いと捉え、今この人混みに紛れてしまえば上手く遠方に移動できると、土方はそう考えた。
 だがここで下手に階段を掛け降りれば、道行く人に不審がられてしまうかもしれない。
 土方は常通りの歩調で階段をゆっくりと下り、逸る気持ちを抑えながらあくまで自然な流れの中で人混みに紛れる。
 そのまま暫く歩き、適当な曲がり角を一度曲がってまた人混みに紛れながら道を真っ直ぐに進んだ。
 そうして、ある程度歩いた先の歓楽街と市街地を繋ぐ橋の前まで来て漸く、土方は無事に万事屋から逃げおおせた事を確認して安堵の息を漏らした。
 直ぐに足を動かし、今度は誰かと待ち合わせをしている風を装いながら柳の下で顔を伏せる。
 そうして、まずこれから先どこに行ったらいいかと土方は考えた。
 先程歩きながら考えたいくつかの案の中で最も現実味が高いと思われるのは、『武州に戻る』という選択肢だった。
 武州は土方の生まれ故郷に当たり、思い出が深い分まだいくらかの土地勘は残っている。
 今のうちに記憶に残る武州の様子を和綴じに書きつけておけば、例え記憶を失ったとしてもそれを頼りに生活できるのではないか、と。
 屯所の住所や土方の容態連絡用に使用している電話番号は、万事屋に移り住んだ時に全て和綴じに書きつけてある。
 これならば、武州に移動した後その情報を使って、屯所に直接近藤や沖田に連絡を取ることは可能だろう。
 懐から取り出した携帯で時間を確認すると、先程から十分ほどしか経っておらず、これならば武州行きの電車もまだ走っているはずだと、土方は目的地を大江戸駅へと決めた。
 大江戸駅はこの橋を渡った先にある、ターミナルへと向かう道すがらにある比較的大きな駅だ。
 ここからならば歩いて、徒歩十分ほどといったところだろうか。
 だが今回は場合によっては人
目を避けながら行動しなければいけない関係上、いつもより時間が掛かるかもしれないと踏んでいる。
 というのも、この橋を超え大江戸駅とは少し違う方向に歩いて行くと、それは屯所への道へと繋がるのだ。
 この時間、万が一でも隊士かその知り合いに見つかればあっという間に足がつく。
 それに、考えたくもないが万が一浪士に見つかればまず間違いなく大立ち回りに巻き込まれるだろう。
 それは居場所を知られる事を恐れる土方にとって、一番避けたい事態だ。
 駅に着くまではあくまで慎重に、柄ではないが隠密のように行動しなければいけないのだと、己に言い聞かせる。
 幸い、武州行きの最終列車は十一時ジャストに発車のはずで、それを思えば時間的余裕は十分にある。
 焦らず慎重に行こうと、土方は柳の下から歩き出し、人の流れに乗るように橋を渡った。
 いつでも路地へと逃げ込めるように周囲を気に留めながら、土方は少しだけ早い歩調で大江戸駅方面へと向かう道の門を曲がる。
 そのまま暫く道なりにあるいていると、不意に目の端に不穏なものが映り込み、土方は咄嗟に路地へと身を潜めた。
 改めて路地からほんの少しだけ顔を出し、先程違和感を感じたものの正体を探る。
 そしてそこに己の腰にささっているそれと同じ刀を見つけ、土方はつくづく運のない己に舌打ちをした。
 その風貌は昼間、銀時と共にいた土方を取り囲んだ浪士のそれとよく似ているように思う。
 どちらにしろ、これ以上先に進めば浪士たちに己の姿を見咎められる恐れがある。
 今の土方にとって最も避けたい事態であることは間違いなく、ここは遠回りでも路地を抜けた先の裏道を進む方がよさそうだと、土方は踵を返そうとして。
 その瞬間、不意にこちらに視線を向けた浪士の一人と、目があった気がした。
 息を呑み慌てて踵を返した土方は、そのまま裏路地を元いた道とは反対方向へと走りだした。
 恐らく、バレただろう。
 背後から感じる気配がざわめき、次いで聞こえてくる複数の足音は、まず間違いなく先ほどの浪士たちが己を探しているものだ。
 二度見つかる前に、早く何処かに隠れなければと、土方はビル街の路地裏を必死で走りぬけそのまま民家の立ち並ぶ宅地へと逃げ込んだ。
 この暗闇に上手く紛れることが出来れば、さすが浪士たちもこの時間の民家周辺を虱潰しにすることなどできない。
 土方は目についた家と家の隙間に入り込み、そこに置かれたポリバケツの脇に身を潜めるようにして、息を殺した。
 暫くそのままじっとしていると、案の定、恐らく己を探しているのだろう浪士たちの声が聞こえる。
 浪士たちはその口ぶりからここから恐らくそう遠くなり場所で、なにやら情報交換をしているようで、土方は息を潜め、連中がその場からいなくなってくれるのを待った。
 そして、数分後、暫くその辺りを探していたものの、浪士たちの間に諦めたような雰囲気が漂い始める。
 流石にこの闇だ。
 諦めたのだろう面々の草履の音が完全に聞こえなくなるのを待って、土方はやっと息を吐き出した。
 これで少なくとも、危険は一旦回避出来ただろう。
 だが、今の一件で予想外に時間を使ってしまった。
 時刻は十時四十分を回り、少し急がなければ列車に間に合わない時間になってしまっている。
 幸いこの辺りの地図に関する記憶は失われておらず、土方の足ならば多少急げば十分に列車には間に合う。
 だが、この先また何が起こるかわからない以上、なるべく急いで駅に向かったほうがいいだろう、と。
 路地に腰を下ろしていた事で汚れてしまった砂埃を着流しから払い、土方はその場に立ち上がった。
 そうして、再び駅の方へと向かおうと足を路地から踏み出す。
 ――異変が襲ったのは、その時だった。
 突然、こめかみを左右からきりで突き刺されたような痛みが襲い、思わず頭を抱え、土方はその場に座り込んだ。
 脳天を鈍器で殴られたような目眩と同時に脳内で鳴り響くのは紛れもない警鐘で。
 それが近しいものの記憶を失う際に土方を襲う『例の』頭痛である事は明らかだった。
(……ッ、マジか……こんな時に……!)
 最悪のタイミングだと、土方は痛みを堪えるようにこめかみを左右から手のひらで抑えた。
 余りの痛みに気が遠くなりかけて、だが、土方はその意識の端を離すまいと必死で掴む。
 そして、懸命に立ち上がりもつれる足を半ば無理矢理動かし、先程とは逆に路地の奥へと向かった。
 表通りに倒れこむ訳にはいかない。
 そんなことになれば直ぐに救急車が呼ばれてしまい、当然顔の知られた土方の身元は直ぐに明るみに出るだろう。
 恐らくそうなれば直ぐにでも屯所に連絡が行き、更にはそこから今土方の身体を引き取っている銀時へと連絡が行くことは必然だ。
 それだけは、避けなければいけない。
 今までの経験上、頭痛で倒れた己の身体は数時間程度で目を覚ますはずだ。
 それまで、誰にも見つからなければ、このまま逃亡を継続することができる。
 だからこそひと目を避けるためには少しでも、路地の奥に。
 そう思い、己の身体を引きずるように移動していた土方の身体は、軽度の目眩とともに先程身を隠していたポリバケツに足を取られその場に倒れこんだ。
 幸か不幸か路地にまとめて捨てられていたゴミ袋がクッションになり怪我はしなかったが、酷い悪臭が鼻をつき更に痛みで意識が遠のく。
 もう、耐えられないと、そう思った瞬間。
「………ぁ、………」
 脳内に皮肉顔で憎まれ口を叩く、茶髪の少年の影が過ぎった気がして。
「………ッ、……ぅご………」
 その名を呼ぼうと開いた口からは結局音らしい音が発せられる事は無かった。
 意識を失うその瞬間は、まるでテレビの電源を切るかのような唐突なものだったと、思う。
 ブラックアウトした意識に記憶を引きずり込まれるように、土方は狭い路地裏で、意識を失った。


 *     *     *


「新ちゃーん! 新ちゃんいるー?」
 夜半過ぎの、恒道館。
 その台所で炊事をしていた姉である妙の呼び声に、新八は神楽と共に庭で定春と遊んでいた手を止め、台所へと向かった。
「はい姉上、なんですか?」
 ひょい、と台所の扉から顔を覗かせると、妙は水場で食器を洗いながらあのね、と傍にあったゴミ袋を指さす。
「今、洗い物のついでにまとめちゃったんだけど、そこのゴミをゴミ捨て場に捨ててきてくれないかしら? 明日、回収車が通る日なの」
「あ、そうなんですか。わかりました、行ってきます」
 裏路地のゴミ捨て場でいいんですよね、と問いかける新八の言葉に、妙は炊事をしながらそうよ、と答えて笑った。
 新八は頷き、妙の足元に置かれた二つのゴミ袋を両手に持って、勝手口から直接外に出る。
 時刻は十一時を回り、新八は吹きすさぶ風に身を竦ませながらなんとなく空を見上げた。
 あいにく見上げた空は曇りで星は殆ど見ることが出来ず、新八はそれを残念に思いつつ恒道館の門を潜り、外に出る。
 さすがにこの時間になると、この辺りの人通りは殆ど無い。
 暗い夜道に己の足音だけが響く中、新八は目的のゴミ捨て場に向かう角を右に折れた。
 丁度この先に、この辺り一帯のゴミを置いていく捨場があるはず、だが。
 角を折れた新八は、急に目に飛び込んでしたその光景に顔を顰めて歩を止め、その場から一歩後退った。
 真っ暗な路地裏のゴミ捨て場に、なぜか視認できる限り二本の足が横たわっている。
 思わず口から漏れたひっ、という息の抜ける声は悲鳴になり損なったものだった。
 見たところ路地の奥側に向かって倒れ込み、向う脛が露わになっているのは男性の足のようで。
 この時点で新八の脳内に上がった選択肢は、一から十まで死体一択という物騒極まりないものだった。
 だが、それはそうだろう、と思う。
 泥酔者が蔓延る歓楽街のど真ん中ならまだしもこんな民家の密集する宅地のゴミ捨て場に、そうそう酔っぱらいなど寝そべってはいない。
 だが、念のため、嫌でも一応生死は確認したほうがいいのではというお節介の元、新八はゆっくりと摺り足でその倒れこんだ男の方へと近づいていく。
 願わくば、死体であろうとなるべく身体は綺麗なままでありますように、とか、傷とか血とか控えめでお願いします、などと願いつつ。
 その時、不意にそんな新八の気持ちを助けるように、雲の切れ目から月がぼんやりと顔を出した。
 そしてその、月明かりに照らされ顕になった男の顔、に。
 新八は、手に持っていたゴミ袋をその場に取り落とし、弾かれたように、男の方へと駈け出した。
 それは、ここにいるはずのない――むしろいてはいけない――人物で。
「っ、土方さん!!」
 思いもよらぬその姿に、混乱しながらも新八は倒れこんだ土方の身体の脇に腰を下ろし、いつか銀時がしていたように口元に耳をよせた。
 土方の唇が耳たぶに触れるほどの位置まで耳を近づけ、必死で土方の呼吸に触れようと息を潜める。
 そして数秒後、微弱だが土方の口から息が吐き出され、また酸素を取り入れようとする音が耳に届き、新八は心の底から安堵した。
 だが直後、なぜこんな所に土方が倒れているのだろうという疑問が襲う。
 念のため周りを見回しても、そこに土方以外の男の影はない。
 つまり、銀時がいない。
 それは、己があの万事屋を出る経緯となった出来事を十分認識している新八にしてみれば、異様としか言い様がない状況だった。
 とにかく、銀時に連絡をしなくてはと思ったが、まさか意識を失っている土方をここに一人残していく訳にはいかない。
 ならば先に土方を恒道館に運んだほうがいいかとも迷い、だが、直後に新八は土方が必ず所持しているだろう携帯の存在を思い出した。
 誰ともなくごめんなさい、と謝罪しながら土方の懐を探ると、幸いそこに入れられていた黒い機体は直ぐに見つかった。
 新八は二つ折りの携帯を開き、緊急事態なんです、ごめんなさいと再度謝り携帯のアドレス帳を開く。
 勘でや行をあければ、案の定そこに『万事屋』と登録された見慣れた電話番号が見つかり、新八はすぐさまそこに電話をかける。
 しかし、てっきり数コールで出ると考えていたコール音は、何時まで経っても耳元で鳴り続け、銀時が電話にでる気配はない。
 そもそもなぜ土方がここにいるのかは不明だが、まさか何らかの理由でここにいる土方を探して外に出てしまっているのだろうか。
 それとも。
 ぞくりと、嫌な予感が背筋に走った。
 万事屋の黒電話に留守電などという便利なものはついておらず、その気になれば出るまでかけ続ける事は可能だ。
 だが、事は一刻を争うと思えば、新八はコールが十を超えた所で一旦見切りを付け、もう一度アドレス帳を開いた。
 だがそこで、ならばどこにかければいいのかと指が止まる。
 迷った末、た行をあけようとして、やはりだめだと首を振った。
 屯所に掛けて、もし一般隊士が出てしまえば、この携帯をなぜ使っているか、新八にはそれを説明をする事ができない。
 ならば近藤や沖田の携帯に直接連絡をしてしまおうか。
 この状況ならば、仕事の邪魔をしても許されるだろうと、新八はか行を開こうとして。
「あ、……そうだ、山崎さん……!」
 不意に、まだ己が万事屋に居た頃、土方がこの携帯を使って土方の容態連絡用携帯に電話をしていた事を思い出した。
 あれは確か三週間ほど前のことだと、新八はリダイヤルを表示させ、日付を過去に送る。
 暫く探せば、それはすぐに見つかった。
 三週間ほど前の夕方に、『連絡用』と登録された番号への発信履歴。
 その番号は以前己が黒電話を使い回した覚えのあるもので、新八は急いで発信ボタンを押す。
 もしこれでも他の人間に連絡がつかなければ、先に土方の身体を安全な場所に運ぼうと考えて。
 だが、数回のコール音の後、幸い電話はすぐに繋がった。
『……副長ですか?』
 スピーカーから響くのは、聞き慣れた山崎の声。
 その声音に、自分で思うよりずっと、安堵していることに気付く。
「山崎さんですよね。僕、志村です」
 声が掠れそうになりながらも、必死で声帯を動かしなんとか声を出す。
 その声と言葉は、山崎にとってさぞ予想外のものだったのだろう。
 携帯の向こうで僅かに息を呑むような雑音が聞こえ、山崎は直ぐ新八の置かれている立場が只ならぬものだと気づいたようだった。
『新八くん? どうしてこの携帯に……副長は、……土方さんは、大丈夫?』
 新八がこの携帯を使っているということは、何らかの理由で土方が携帯を使用できない状態にある、と。
 山崎は直ぐにでもそれに気づいたのだろうと思い、新八は焦りを抑えながら電話口に向かって叫んだ。
「大丈夫じゃありません! お願いです、すぐに恒道館に来て下さい。ッ土方さんが……――!」








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