砂時計が落ちるまで 〜prologue〜




序章



 始めに気付いた小さなほころびは、部屋のカレンダーに付けられた真っ赤な丸印だった。
 何かの記念日でも、近しい誰かの誕生日でもなさそうななんの変哲もない平日に付けられたその印に、土方は眉を寄せる。
 あまり几帳面とは言えない性格の自分が、わざわざこんなマーキングをする程度には、何かこの日に重要な用事があったのだろうか。
 だが、いくら考えても何も思い出せずに、些か苛立ったように土方は頭を掻いた。
「山崎!」
「はい、お呼びですか」
 少しだけ声を張れば、僅かの間を置いてすぐに襖が開く。
 常通りに顔を出した山崎の姿に目を留め、土方はカレンダーに付けられた赤い丸を山崎に指し示した。
「おい、来月の三十日、俺何か用事があるとか言ってたか?」
 何か重要な要件ならば、有休を取るなり何か非番の申請をしているかも知れない。
 山崎は常日頃から、土方以上に土方のスケジュールを把握している。
 ならば、その要件についても何か己が零した言葉を覚えているのではないかと。
 そう考えて土方は山崎にその事を問いかけたのだが。
「……え?」
 予想に反し、山崎から返ってきたのは酷く不可解そうな表情だった。
「は?」
 己の物忘れがそんなに意外だろうかと、僅かに首を傾げる土方に、山崎はどこか慌てたような口調で言った。
「何言ってんですか、副長。来月の三十日は、……ミツバさんの、三回忌ですよ」
 そして告げられた言葉に、土方は瞠目した。
 それは、土方にとって思いも寄らない言葉で。
「……アイツの……?」
「副長?」
 全く身に覚えのない、その唐突に突きつけられた事実に、思わず銜えていた煙草を口から落とす。
 火がついたまま畳に落下していく吸いかけの煙草に、山崎が慌てて脇にあった灰皿を差し出しそれを受け止めた。
「何やってんですか副長! 危な、っ」
 だが、その事に謝罪を返す余裕もなく、土方は畳に膝を付き山崎の両肩を掴んだ。
「……おい、それ、いつのことだ」
「副長……?」
 問いかけながら、それが酷くおかしい問いであろう事を、心のどこかでわかっていた。
 カレンダーの印も、山崎の態度も、それが既に土方の把握している事実である事を示している。
 だが、覚えがない。
 記憶のどこを探っても、そんな記憶は、出てこない。
「いいから教えろ。アイツが、……死んだのはいつだ」
 土方の態度に、何かただならぬ物を感じたのだろう。
 山崎は一度きゅ、と口を引き結んでから、灰皿を傍らに置いた。
「……ニ年ほど前の、春先のことです」
 三回忌ですから、と付け足す言葉に、冷静に考えればその通りだと思い、だがやはり記憶の海からその事実は浚えない。
 見つからない記憶の粒を探すように額を押さえる土方の様子に、山崎の瞳が徐々に瞠目していく。
「副長……? まさか、アンタ、ホントに……?」
 信じられないと首を振る態度にも、覚えていないのだから本当にどうしようもない。
 どうでも良い雑事ならともかく、生まれて初めて守りたいとその心を寄せた女性の死を忘れるなど、有り得ないことだった。
 だが。
「……覚えていない、というか、本当にそんなことがあったのか?」
 あまりにもその断片すら感じられない記憶の欠如に、そんな事実があったこと自体、土方には信じがたい。
 だが、山崎の顔は真面目な物で、とても自分をからかっているとは思えずに狼狽する。
「本当です。生前、ミツバさんがこちらにいらしたときに容態が悪化して……」
「アイツが江戸に?」
 次々山崎の口から吐き出される覚えもない事柄に、土方は思わず声を遮って問い返す。
 だが、その事で山崎はいよいよ顔を強ばらせ、眉根を寄せた。
「……あの、副長。一つ、伺っても良いですか?」
「な、なんだ……」
「蔵場という名に、覚えはありますか」
 問いかけられた言葉に、土方は記憶を探る。
 今の話の流れだ、その蔵場という人物のことを、恐らく土方は知っている。
 正確には、知っていたのだろう。
 そして、それを今も『知っている』かと、それを山崎は確認したいのだ。
 目を伏せ、頭の中の知人や幕臣の名前、攘夷志士のリストを片っ端から洗うが、そのどこにもそんな名前は挙がってこない。
「……、いや、分からない」
 どうしても思い出すことが出来ないその名前に観念したように首を振る土方に、山崎は溜息をついた。
「……そうですか」
「誰なんだ?」
 この問いは、恐らく山崎にとっては酷く滑稽なものだろうと思いながらも、問いかける。
 山崎は土方の問いに一呼吸を置いて、口を開いた。
「ニ年前、武器密輸の容疑で副長が追っていた、『転海屋』という会社の社長です」
「ニ年前……」
 そのキーワードをどこかで聞いたと、単語を反芻する土方に、山崎はそうです、と頷く。
「蔵場は沖田隊長の姉であるミツバさんを囲う事で、真撰組を取り込もうとしていました。副長と沖田隊長が手を下さなければ、……そのまま、ミツバさんの夫になっていたはずの人物です」
「……そうか」
 詳しい事情はわからないが、その説明だけで十分、えげつない悪人である事は理解できた。
 ついでに手を下したという言葉からして、その男が既に生きていないのだろうと言うことも。
 そして、ここに来て漸く、土方は自分の現状を否が応でも理解する余裕が生まれた。
「……山崎」
「はい」
「過去、俺が真撰組で関わった事件の目録を持ってこい。時期は問わず、全てだ」
「あ、……はい!」
 土方の意図に気付いたらしい山崎は、すぐに立ち上がり踵を返す。
 その背中を見送り、土方はぐっと拳を握った。
 ひょっとしたら気付いていないだけで、他にも抜け落ちている記憶があるのではないか。
 今最も土方の中で不安な要素はそこだ。
 覚えていないのなら尚更、そんなことが自分で分かるはずがない。
 土方は立ち上がり、私室の押し入れを引き開けた。
 そして、ほこりを被っている藍色の箱を押し入れの奥から引っ張り出す。
 数年前に一度開いたきりの箱を開けると、中には数冊のアルバムと写真の束が入っていた。
 その中から一冊を取り出して開けば、それは武州時代の物で。
「………ミツバ……」
 総悟を腕に抱き、花のような笑みを浮かべるその姿が目に入れば、胸が痛む。
 正直、彼女が死んだなど、今も山崎の冗談ではないかと思っていた。
 確かにミツバは肺を患っていた。
 だが、それでもまさか、こんなに早く。
 アルバムを一枚捲れば、また違った風景の中にいる自分達が顔を出す。
 その一つ一つを指で追いながら、土方は当時の出来事に思考を巡らせた。
 道場で毎日のように行った稽古の様子や、みんなで行った地元の祭りや花火大会。
 場面場面を追いながら、記憶の欠落がないかを一つ一つ、確認していく。
 そして、その中の一つで、土方の指が止まった。
「……どこだ、ここ」
 恐らく武州ではない、どこか別の場所だと言うことはわかるが、覚えがない。
 写真に写っている総悟や近藤の服装からいって、どこかに旅行に行ったときの物のようだ。
 だが、その場所にまったく見覚えがない。
 土方はその写真を台紙から剥がし、傍らに置いた。
 アルバムを捲っていけば、そのほかにもぼんやりと記憶が曖昧な写真が数枚出てきた。
 だが、それが先程の記憶欠如と関係があるのか、単なる物忘れなのか、特定は出来ない。
 そうして、二冊目のアルバムに手を伸ばそうとしたタイミングで、襖が開いた。
 振り向けば、そこには数冊の分厚いファイルを大量に抱えた山崎が立っていた。
「すみません、お待たせしました」
 山崎は持っていたファイルを全て床に下ろし、その上に手をつきながら畳の上へと腰を下ろす。
「悪いな」
「いえ。これが過去一年分の目録です。これからそれ以前の物も持って来ます。それから……」
「なんだ?」
 差し出された薄水色のファイルに、何を纏めた物だったかと背表紙を見やった土方は、なるほどと山崎の気の周りの良さに正直感心した。
 背表紙のカラーテープには、『隊士名簿』と書かれている。
「今真撰組に在籍している、全ての隊士の履歴書です。それから、こっちが、……殉職した者の記録です。少しでも記憶が怪しい者が居れば、付箋を貼っておいて下さい」
「あぁ、助かる」
 土方は副長として、面接から選考まで、その全てを局長である近藤と共に行っている。
 だが、こうなってしまってはその記憶すらも怪しい。
 土方はアルバムを一旦脇に置き、ファイルを一冊手に取った。
 どうか、記憶の欠如はあれだけであって欲しい。
 そう願いながら、土方は記録された事件の概要を、指先で追った。





 それから数時間後。
 茶を持って副長室を訪れた山崎に、土方は項垂れた表情のまま名簿ファイルを差し出した。
 閉じられたファイルの名簿から二枚、黄色の付箋が見え隠れしている。
「……副長」
「流石に、隊士はねぇよと俺も思ったんだがな」
 些かショックが大きく、煙草を加える手が僅かに震えた。
 土方がライターを出すより先に、山崎が銜えたそれの先端に火を翳す。
 すぅっと息を吸い込み、肺まで舞い込んだ苦い煙をふーっと空中に霧散させた。
「……名前すら覚えがねぇ。さすがに、……呆れた」
「二人とも、ですか」
「一人は、隊士なのは覚えてるが、入隊時の記憶と名前がわからねぇ。俺が面接したはずなんだけどな」
 例え朧気でも、初対面の時の記憶というのは割と色濃く残る物だ。
 だが、その存在すら、思い出すことが出来ない。
 例え平隊士であろうとも、入隊時に近藤と土方への目通りは大原則になっている。
 顔も名前も全く覚えがないというのは、有り得ないことだった。
「平岡と相模……、ですが」
「どこの所属だ」
 紫煙を燻らせながら問う土方に、山崎は名簿を確認しつつ答えた。
「平岡は三番隊、相模は七番隊です。相模はまだ入隊して数ヶ月ですが、平岡は伍長ですから、少なからず副長との面識はあるはずです」
 山崎が指さした『平岡』は、隊士であることには覚えがあった隊士の方で。
「……そうか」
 やはり、忘れているのはミツバの一件だけではなさそうだと土方は息を吐いた。
 現に、目録に書かれていた事件の中にもまるで覚えがない事件の概要があったのだ。
 五年前、新手の攘夷浪士が幕府高官の家に爆弾を仕掛けたらしい、テロ事件。
 犯人を逮捕したのは副長の土方であると明記があるにもかかわらず、その事件があったことすら、覚えていない。
 ミツバの時と、状況は同じだ。
 土方は小さく息を吐き出した後、先程アルバムから剥がした数枚の写真を山崎の前に並べた。
「これが、どこかわかるか」
 端的に問いかける土方の言葉に、山崎は並べられた写真へと目を落とす。
 そして、写真に写り込んだ景色から何かを見つけたのか、口を開いた。
「これは、常州ですよ」
「常州……?」
「はい、多分間違いないと思います。武州に居た頃、行ったことがあると聞いてますし。こっちは、……江戸に移ってからですよね、俺写ってますし。多分、花見じゃないですか?」
「……まだ尾崎がいるな。六年くらい前か」
 映り込む神社の境内と、五年前に殉職した男の顔に見覚えがありそう告げると、山崎の顔が僅かに緩んだ。
「尾崎は、覚えてるんですね」
「……あぁ」
「因みにですが、他の映ってる奴らも、分かりますよね」
「あぁ。名前も、顔も分かる」
 局長が酷く絡んでいるのは原田で、その横に長倉や山崎の姿も見える。
 まだ髪の長かった土方の後ろ髪を引っ張っているのは、江戸に出たてでまだ幼い風貌を残した総悟だ。
 六年前ならば、記憶が朧気になっていてもおかしくはない。
 これに関しては保留だなと写真を手に取る土方に、不意に山崎が眉を寄せた。
「でも、……変ですよね」
「あ?」
「いや、だって……共通点がなにもないじゃないですか」
「どういう意味だ」
 問い返す土方に、例えばですよ、と山崎は写真と名簿を並べた。
「副長のそれが、記憶喪失と仮定して。記憶喪失って普通、なにか条件があってその条件に当てはまる物を忘れますよね。この期間より前、とか、この人物のことだけ、とか、それこそ全部とか」
「……そうだな」
「でも、あのミツバさんの事件と、この二人の隊士と、常州への旅行って、なんの接点もないですよ」
「確かに、……そうだな」
 言われてみれば、確かに己の中で失われているらしい記憶には、相互関係が何も感じられない。
 まるでランダムに、適当な場所を掻い摘んだような不規則さが伺える。
 何かがおかしいと、土方は肺までゆっくりと紫煙を吸い込んだ。
 そもそも、今己の身に起きていることは、本当に記憶喪失なのだろうか。
 己は医学に精通していないが、こんな、中途半端な記憶喪失など聞いたことがない。
 独学で医術を学んでいる山崎でさえ首を傾げているのだから、本当に珍しい物なのだろう。
 一体己の身に何が起きているのかと溜息をつく土方に、山崎が僅かに言いよどみながら口を開く。
「……ちょっと言いづらいですが、どっちかっていうと呆けみたいですよね」
「山崎……」
「いえ、だから、あの、症状だけ見ての話です!」
 副長の記憶力が良いのは分かってますよと慌てて取り繕う山崎に、だが今抜刀をする気力はなく土方は沸き上がる衝動を溜息で抑えた。
 それに、症状だけをみてならば、尚更その可能性も否定は出来ない。
 肯定など、間違ってもしたくはないが。
 三十路もとうに過ぎた年齢にはなっている物の、未だそういった不調にはついぞお目に掛かったことがない身体だ。
 そもそもこんな問題児を大量に抱えて、ぼけるには少しばかり早すぎる。
 だが、現に今身体はそれと似たような不調に見舞われていて。
 これは病院に掛かるべきなのかと思案する土方に、山崎が再度控えめに、声を発した。
「あの、副長」
「なんだ」
「念のため! 念のため、なんですけど」
 先程より更に言い淀む山崎の姿に、土方は短くなった煙草を灰皿に押しつけ目を伏せた。
「……んだよ」
 一体何が言いたいのかと、早く言えと急かすような視線を送れば、山崎は自分から話し出した癖に渋々、といった風を装いながら言った。
「いえ、その、……だ、旦那のことは」
「あ?」
 こちらの顔色をうかがいながら、恐る恐る問いかけてくる山崎の言葉の意図を理解した瞬間、かっと頬が熱くなった。
 旦那、と山崎が称するのは土方の知人の中でただ一人。
 かぶき町で万事屋を営む坂田銀時、隊士間での通称『万事屋の旦那』の事だ。
 そして、その旦那――銀時と土方は、同性でありながら思いを通わせあった恋人同士である。
 山崎は二人の隠された関係の数少ない理解者であり、協力者だった。
 だからこそ、ミツバの死を忘れている己から銀時との関係を示唆する何かが失われているのではと心配したのだろう。
 だが、なんの前触れもなく問われたその名に、瞬間的に脳が沸騰して。
「お、覚えてるに決まってんだろ! 叩っ切るぞ!」
「ひぃ!! すみません!!」
 今度こそ、倦怠感も忘れ思わず刀に手が伸びた。
 衝動のまま抜いた刀を山崎に突きつけ、全く碌な事を言わないとその顔を睨み付ける。
 その、直後だった。

「……痛ッ……ぅ!?」

 唐突に、割れるような痛みが後頭部を襲う。
 まるで鋭利な刃物で串刺しにされたような酷い痛みが脳髄を走り抜け、土方は思わず刀をその場に取り落とした。
「え、……副長?」
 驚いたような、慌てたような声で己を呼ぶ山崎の声が、遠い。
 激しい痛みの後に続く脳みそを揺さぶられるような目眩に耐えきれず、身体が刀を追ってぐらりと傾く。
「副長!」
 咄嗟に手をこちらへと伸ばす山崎の腕に、倒れた身体は抱き留められたのか。
 それとも、その手は間に合わずにその身体は畳に叩きつけられたのか。
 倒れ込む途中、まるでスイッチが切れるように意識を失ってしまった土方には、そのどちらを認識する術もなかった。





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